第27話_夜の視聴覚室

 夜の視聴覚室は、昼間とはまったく別の顔を持っていた。昼は発表や映像鑑賞に使われる明るい空間が、夜になると静まり返り、古い機材が薄闇に沈んで無機質な影を伸ばす。蛍光灯を半分だけ点けても、奥の棚やスクリーンの隅には濃い影が張りつき、目を凝らすと形のわからないものが潜んでいるように見えた。

 「ここ…なんか嫌な気配、しない?」

 由依が小声で言った。彼女の視線は正面の大スクリーンへ向いている。スクリーンの布地が、わずかな風もないのに揺れているように見えた。

 「空調は切ってあるはずだ」

 龍平が制御盤を確かめる。温度計は24℃を指しているのに、肌にはひんやりとした感覚がまとわりつく。

 「夜にここを開けると、必ず誰かが冷たい声を聞いたって話が残ってるんだよ」

 咲子が囁く。彼女の声も震えていた。

 「誰が最初に言い出したんだ?」

 大夢が問いかける。

 「七年前、この学校で「実験映像」を流したときらしいの。映像は消したはずなのに、真夜中になると勝手に再生されたって」

 奈緒子が資料の束をめくりながら答える。

 卓哉はスクリーンに近づき、指で布を押さえた。「…揺れてない。でも、奥から風が吹いてるみたいだ」

 その瞬間、視聴覚室の奥で「カタリ」と古いリールが落ちる音がした。全員の視線が一斉にそちらへ向かう。棚の一番上、白いリール缶が転がっていた。

 「勝手に動くわけ、ないよな」

 龍平が低くつぶやいた。

 「——動くんだよ。七年前に封じた「記録」が」

 ドアのそばに立っていた成瀬先生が、落ち着いた声で言った。手には懐中電灯を持っている。

 「先生、知ってるんですか?」

 由依が問い詰める。

 成瀬先生は頷き、リール缶を手に取った。「これは当時、心理実験用に撮られた映像だ。被験者に延々と同じ声を聞かせ、反応を測った。だが、データよりも「声そのもの」が残ってしまった。だから、夜ごとに流れようとする」

 「…それって、危険じゃないですか」

 奈緒子が声を潜める。

 「危険というより、「残響」だ。だが聞き続ければ心を侵す」

 成瀬先生は黒板用の小札を取り出した。赤字で「視聴禁止・保存庫へ」と書き、棚に貼る。

 「渡し札、記録するぞ」

 森本が手帳に走り書きをする。

 しかし、記録を終える前に再び「カタ…カタ」と音が鳴った。今度は複数のリール缶が揺れ始め、スクリーンの奥に淡い人影が浮かび上がる。

 「来るぞ」

 大夢が前に出る。影は輪郭を結び、耳を塞いでうずくまる人の姿を取った。呻くような声が低く響く。

 「——やめて、聞きたくない…」

 由依は息を呑んだ。「これ、被験者の声…?」

 「そうだ。残響は人を真似る」

 成瀬先生が厳しい顔で答える。

 「封じる方法は?」

 龍平が訊ねる。

 「紙だ。渡し札で「聞こえない」と書き、入口と出口に貼る。意識の通路を塞げば、声は外へ出られない」

 由依が迷わず筆を走らせる。—「聞こえない。夜の声は、渡らない」。札をスクリーンの上と出口に貼ると、影はと揺らぎ、霧のように薄れていった。

 静寂が戻る。

 「…本当に、紙一枚で止まるんだ」

 咲子が呟いた。

 「紙は、合意の証だからな。声より強い」

 大夢が答えた。

 視聴覚室にはまだ冷たい気配が残っていたが、それ以上の囁きは聞こえなかった。

 影が霧へ戻ったあとも、視聴覚室の空気は完全には緩まなかった。スクリーンの布は、さっきまで誰かがそこに顔を寄せていたみたいに、温度差を保っている。

 「「聞こえない」札、入口と出口だけで足りるかな」

 由依が札の角をなぞり、貼り位置を微調整する。

 「もう一枚、機材棚にも。『再生不可(夜間)』って、代案も入れて」

 大夢がペンを渡すと、由依はテンプレの三段で書いた。

 A:夜間の再生はできません。

 B:日中、立会のもとで視聴してください。

 C:夜間に「残響」が強まり、無関係な人へ影響が及ぶのを防ぐためです。

 そこへ森本が駆け込んで来る。「渡し札、臨時で打つ。視聴覚室↔保存庫↔生徒会。連番は会計で回すよ」

 奈緒子はリール缶の外周を布で拭い、微かな錆の匂いを吸い込んで咳き込んだ。「…これ、単なる音じゃない。「聞く姿勢」の癖まで焼き付いてる」

 「「姿勢」?」

 「そう。被験者が「聞くのを諦めようとした」筋肉の固さ。それも反復の中で培養されて、部屋に移った。だから夜になると、部屋のほうが「聞かせようとする」」

 卓哉が冗談を飲み込んで、真顔で頷く。「じゃあ、札は「耳」だけじゃなく「姿勢」にも効かせる言葉にしよう」

 成瀬先生は、保存庫へ移送するための台車を押してきた。金属音が短く跳ね、部屋の奥から返事がなかったのを確認してから、白いリール缶を載せる。

 「実験の同意書は残っている?」

 倉本先生が封筒を差し出す。黄ばみかけた紙に、当時の署名欄。チェックボックスが三つ——「日中視聴への同意」「研究目的の保存」「三年以内の再利用」。最後の項目の横に、ひとつだけ大きな×印がある。

 「…「三年以内の再利用」は拒否。なのに、七年目の夜に動いてる」

 由依の指先に、紙のざらつきが移る。

 「だから「凍結」。同意の外に出た録音物は『凍結解除フロー』へ」

 咲子が即座に項目を起こす。

 1)同意の範囲と期限を確認。

 2)公開担当+司書+停止権者で一次審査。

 3)必要なら「反対を含む説明」を掲示。

 4)学内での位置づけを決定。

 5)台帳公開。

 保存庫へ向かう途中、投書箱へ黄票が滑り込む。

 返答は三段で、同じ太さで戻す。

 ①ご指摘の通り、言い回しは受け手の姿勢に影響します。

 ②表示は『夜の視聴は行いません』に改め、補助として『聞こえない=残響を遮断するため』の注を添えます。

 ③理由:否定を短く、代案を具体に、理由を目的語で示すためです。

 視聴覚室の鍵を閉める直前、スクリーンの裏から紙片がひらりと落ちた。白い封筒、丸い書き癖。

 監査人の一行は、今回も方向だけを置いていく。

 夜の検収会。東雲は封筒と同意書を見比べ、短く線を引いた。

 「「期限を越えた同意」は無効。録音物は凍結。公開は「反対を含む説明」つきで、日中・立会下のみ。夜間は封鎖」

 西田はリスクを数値化する。「残響による心理影響は未測定。——「測る前に止める」が妥当」

 森本は実務を整える。「渡し札:AV-01-001〜024。保存庫↔視聴覚室↔生徒会。台帳は公開、個人名なし」

 成瀬先生が付け加える。「聴覚過敏の生徒が来場する可能性もある。文化祭当日は「静けさの避難先」を設け、視聴覚室周辺では実演系の音を控える」

 翌日。掲示板に新しいポスターが並ぶ。

 《視聴覚室 夜間封鎖のお知らせ》

 ・夜の再生は行いません

 ・日中の視聴は予約制・立会あり(役割署名)

 ・録音物は「同意の範囲」で扱い、反対意見を掲示します

 署名は「公開担当(図書室/生徒会)」、停止権者欄には役割名だけが並ぶ。QRは週報の「凍結解除フロー」へ。

 昼休み、視聴覚委員の三年が訪ねてきた。

 「文化祭で「昔の校内映像」を流したいんです。音は消します」

 由依は頷き、渡し札を差し出した。「「音消し版」は可能。ただし『反対を含む説明』と『出典表示』『同意の範囲』の三点を画面末尾に常時表示。BGMは無音、会場には「静けさの避難先」の案内をセット」

 「はい。…「静けさ」の札、助かります」

 視聴覚委員の横顔は、少しほっとした。音を足すより、削るほうが勇気が要る。けれど、その勇気に紙は寄りかかれる。

 午後、保存庫での作業。白いリールは緩衝材に包まれ、ケースには赤い帯——《凍結中:再生不可(期限切れ同意)》——。ケースの脇には、由依が走り書きで貼ったメモ。

 「「聞く練習」は日中に。「聞かせない練習」は夜に」

 咲子が微笑して、それを清書に写す。「「練習」って言い方、好き」

 夕刻、視聴覚室前の廊下で小さなトラブル。学年で人気の動画配信者を志望する一年が、スマホで「夜の視聴覚室」を配信しようと扉に手をかけていた。

 「夜の怪談、伸びるんすよ」

 龍平が前に出る。禁止だけでは足りないことを、最近は全員が知っている。

 A:「夜の視聴覚室は封鎖中です」

 B:「代わりに「昼の視聴ツアー」を公開担当が用意します。『紙で止まる仕組み』の裏側、撮っていい」

 C:「「見えない危険」を煽らず、「見える工夫」を伝えるほうが、あなたの視聴者にも役に立ちます」

 少年は口を尖らせたが、「裏側撮っていい」は魅力だったらしい。「昼で、行きます」

 日暮れ。スクリーンに最後の一枚、薄い札を足した。

 札の角が光を拾い、布の陰が柔らいだ気がした。

 週報の末尾には、運用文書が増える。

 ・AV-01 視聴覚室・夜間封鎖:施行

 ・凍結解除フロー(録音物/映像物):草案→試行

 ・渡し札:AV-01-001〜024

 ・「静けさの避難先」案内:地図とサインを掲示

 ・反応:黄1,青1,白2(条件付き待機)

 ・緊急モード:未発動(履歴公開)

 検収印が二つ。赤い細字が一行。

 黒板の掟に、新しい一行が加わった。

 「言い換えると、「聞く権利は昼に、聞かせない責任は夜に」」

 由依が読み上げ、卓哉がポスターの最終版を保存する。奈緒子は残響の計測ログを史料室に送り、森本は渡し札の連番を締め、龍平は扉の施錠を確認した。

 最後に、大夢は修繕帳の余白へ二つの黒丸を並べる。

 そして今日の一行。

 鍵が閉まる音は、やわらかく短かった。視聴覚室の中は暗い。けれど、暗さの中に、紙の角だけが細く光っている。その光は、誰にも刺さらず、ただ順番を教えていた。


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