第26話_凍る渡り廊下
午前の光が差し込む渡り廊下は、表面だけ白く輝いていた。だが、踏み出した瞬間、靴裏に冷たい滑りが走る。大夢は身を引いてバランスを取り直した。普通の板張りに見えるのに、空気が妙に冷たい。
「ここ、床だけ「凍ってる」みたい」
由依が指先で廊下の端をなぞる。白い霜の粒が浮かび、粉のように砕けた。
龍平は懐中電灯を床近くに当てた。光が反射せず、吸い込まれるように沈んでいく。「…氷膜だ。でも、外気温はそこまで下がってない。局所的に「冷却」してる」
咲子は手帳を開き、計測器を床に置く。表示は摂氏マイナス一度。周囲は二十度近い。「差が大きすぎる。自然現象じゃない」
「何か仕込まれてる」奈緒子はそう言いながら膝をつき、細いピックで隙間を探る。床板の裏から細い管を見つけた。「冷媒配管。——でも、旧式だ。使われてるのは「フロン134a」。七年前に廃止されたはず」
大夢は管に耳を近づけた。わずかな振動。機械の息遣いのような低い音が伝わる。「まだ稼働してる」
「…ここを「わざと凍らせてる」」
由依の声は硬かった。「廊下の中央だけを危険にして、「迂回」させるために」
卓哉が身を屈めて天井を見上げる。梁に貼られた紙片がひらひらと揺れていた。脚立を運び、慎重に取る。そこには走り書きが残っていた。
「また「仮」のまま残ったんだ」
奈緒子は唇を噛む。「実験跡を撤去せず、危険だけが残ってる」
龍平は腕を組んだ。「これを放置したら、いつか転落事故になる。…どうする?」
大夢は廊下の端を見やりながら答える。「撤去より先に、「見せ方」を変える。——危険を危険のままにして、でも「守る」」
咲子が頷いた。「封鎖線を張って、渡し札で「凍結廊下」を記録する。代替ルートは南側の渡り廊下に一本化」
由依はホワイトボードに新しい項目を書き始めた。
1)中央通行禁止、両端を封鎖。
2)代替ルート案内を床面矢印で明示。
3)危険展示として「史料扱い」で残置。
4)冷媒装置は電源断、撤去は後日検討。
「展示として残す?」卓哉が首をかしげる。
「「凍結廊下」は失敗の記録。——でも、危険をどう扱うかの教材にもなる」倉本先生が答える。「撤去より、見せることに意味がある」
大夢は納得し、修繕帳に記す。
渡し札には赤文字で「凍結注意」。二重線が強調され、吊り札が二枚重ねで結ばれた。
封鎖作業は、想像以上に「見せる力」を要した。赤いバンドだけでは、足は惰性で中央へ寄ってしまう。だから床の矢印は普段より一段太くし、南側への代替導線は点描を二列に増やした。掲示板にはA3の新札——《凍結廊下(GY-03)運用中》——を立て、QRで週報の該当段へ直通させる。矢印は人に向けず、出口へ向く。
「…寒気、まだ出てくる」
奈緒子が膝をついて床面温度を取る。中央帯だけが-0.8℃まで落ち、両端は+17℃。差が大きい。
「電源を落とそう」
龍平の声に、用務員の西谷さんが頷く。「分電盤は理科準備室の奥。停止権は施設担当——今日は俺と成瀬先生ね」
理科準備室の金属の盤面に、古い紙ラベルが斜めに貼られている。——「冷却循環ユニット(試験)」。ブレーカのつまみは中途半端な位置で止まっていた。
「「仮」がそのまま、か」
由依が深く息を吸い、渡し札に必要事項を書き込む。発行先は「理科準備室↔渡り廊下」。停止権者は役割で並べ、時刻を書いた。
「落とす」
成瀬先生の合図。ブレーカが、短く乾いた音を置いて下がる。廊下の金属管の震えがやさしくほどけ、足元の白が薄膜から「曇り」に変わった。温度は-0.1℃へ、さらに+5℃へ。
「電源は断。——でも、今日すぐ撤去はしない」
倉本先生が確認する。「史料室行きの「凍結解除フロー」を回そう。危険の設計として意味がある」
封鎖を終えて一息つく前に、予想外の変化が出た。中央帯の冷気が止まり、今度は両端の床に結露が広がり始めたのだ。封鎖ラインの外——通行可能な側——が湿る。
「環境側、もう一段」
奈緒子は帳面に最小限の文言を置く。
薄紙が手すりの「外側」に貼られ、空気の層がなだらかに混じる。白かった霧がたなびく程度へ落ち、ドライマットの角がしっかり吸いついた。
朝課外の時間、最初の投書が落ちた。
青票——「凍った廊下、スポーツ生には「クールダウン」にいい。撤去より活用を」
赤票——「「氷の演出」が文化祭っぽい。封鎖やり過ぎ。写真映え重視で緩和して」
白——沈黙票が二。条件札「7日/反対1件で再検討」。
返事は同じ太さで。
①ご提案の意図は理解します。
②凍結帯の「活用」は行いません。代替として、南側の渡り廊下に「冷風スポット(扇と日陰)」を設けます/写真演出は「上」で。モビールと光の仕掛けを用意します。
③理由:凍結帯は転倒・落下の危険が高く、意図的に「危険で遠回りさせる」設計は学校として採用できません。危険は「史料として見せる」に限ります。
署名は「公開担当」。矢印は道へ。
昼過ぎ、広報委の相原が走ってくる。「パンフ、また修正。「凍結廊下→危険展示」に表記を変えた。QRは週報。——渡し札、二十枚追加できる?」
「出す。連番は会計台帳で」
森本が即答し、札の束に「GY-03」の赤い角印を押す。
午後、封鎖の向こうでカサッと音がした。梁にもう一枚、古い紙片。脚立を寄せて取る。
端に小さな鉛筆書きで、丸い書き癖の一行が添えられていた。
監査人の文字だ。七年前にも、角度だけを置いていったのだと思うと、背中がひやりとした。
「「速い合意」に抗うのが、今の仕事だ」
由依は黒板に太字を足す。
1)封鎖+代替導線を同時に提示。
2)「危険を活用」の提案は採用しない。代替案は安全側で設計。
3)渡し札と台帳を前提に、外部配布は「橋」で最新化。
4)撤去・保存は「凍結解除フロー」で会議へ。
夕刻の検収会。東雲は冒頭で「電源断、妥当。撤去は文化祭後」と線を引き、「「危険の史料化」は良い——ただし「見世物化」は厳禁」と釘を打つ。
西田は「来場導線に「凍結廊下を必ず通らない」保証を」と言い、図の赤線を二重にした。
森本は「渡し札は外部二方向+内部一方向(理科準備室)で三系統。緊急モード未使用、履歴は空欄のまま公開」と読み上げる。
成瀬先生は結ぶ。「「危険は教材」の言い換えも必要だね。——「失敗の記録」として並べる。講評は「責めない声」で」
会議を出ると、封鎖線の前に二人の一年が立っていた。「なんで通れないの?」と問われ、卓哉がA3ポスターを指さす。
A:「この帯は今「凍結廊下」で歩行禁止です」
B:「南渡り廊下へお回りください(矢印)」
C:「転倒の危険があるため。「危険を見せて遠回りさせる」設計は採用しません。代わりに安全な道を用意しました」
二人は「わかった」と素直にうなずいた。禁止は短く、代案は具体、理由は相手の目的語で——体が覚えている。
夜、自習帰りの静かな廊下で、封鎖の向こうがふっと白く息をついた。冷媒は止まっている。残る冷気は、過去の「実験」の残響だ。
「大夢」
由依が横に並ぶ。「…これ、楽だったと思う? 「凍らせたら、みんな遠回りする」。設計としての誘惑」
「楽だね」大夢は正直に言う。「でも、線は太くするほど、寄りかかれる。——危険の線を太くするんじゃなく、回避の線を太くする」
彼女は小さく笑った。「同じ太さ、同じ速さ。…ね」
修繕室に戻ると、投書箱に白い封筒が一通。開くと、丸い書き癖の短句。
それは、今日の結びにふさわしい温度だった。
週報の末尾に、項目が増える。
・GY-03 凍結廊下:電源断済/封鎖+代替導線運用中
・渡し札:GY-03-001〜045
・反応:青1,赤1,白2(条件付き待機)
・緊急モード:未発動/履歴公開
・次回会議:撤去/保存の凍結解除フロー協議
検収印が二つ押され、赤い細字が添えられた。
黒板の掟に新しい一行。
「言い換えると、「危険は飾らず、道を太く」」
咲子が読み上げ、龍平が「太く、な」と指で二重線を描く。卓哉は「上の演出」のモビール案を広報へ投げ、奈緒子は管の系統図を史料室箱へ収めた。
最後に、大夢は修繕帳の余白へ二つの黒丸を置く。
そして今日の一行を書く。
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