第25話_沈黙の観覧席

 旧体育館の二階には、もう使われなくなった観覧席がある。木の床板は軋み、赤いビニール張りの椅子はひび割れ、梁の隙間から粉塵が舞い降りる。昼間でも半分以上が影に沈んでいて、声を出すと奇妙に吸い込まれる。

 「ここだよ、「沈黙の観覧席」」

 奈緒子がライトを照らすと、由依は眉を寄せた。「声が…止まる?」

 彼女が試しに「やっほー」と呼ぶと、最初の二音で音が消えた。反響もなく、後半がごっそり抉り取られたみたいに、口を開いているのに耳に届かない。

 龍平が椅子の列に腰かけ、足をぶらぶらさせる。「なあ、これ、ただの吸音じゃねぇ。一定の高さだけ抜けてる」

 「高さ?」咲子が首を傾げる。

 「周波数の谷間。——人の声がそこに丸ごと落ちる」

 大夢が前方の舞台を見下ろすと、中央のラインに白いチョーク跡がまだ残っている。部活の集合や発表で使われた名残だ。だが、ここから声をかけても、舞台には届かない。

 「もし緊急時に叫んでも、届かない」由依が言った。「「声を奪う座席」」

 そこに卓哉が笑いながら割り込む。「じゃ、秘密を話すにはちょうどいい場所だな」

 「逆だ」奈緒子はきっぱり首を振る。「「聞こえない」ことは、「伝わらない」こと。秘密じゃなく、事故になる」

 彼女は修繕帳を開き、書き込む。

 帳面の端に黒いにじみが広がり、観覧席の通路が淡く赤いロープで封鎖されたように見えた。

 「原因を突き止める必要がある」龍平が言う。「ただの建材の劣化か、それとも…」

 大夢は無意識に背筋を伸ばした。観覧席の最奥、影の中に、何かが座っている気配がしたからだ。

 「…見たか?」

 由依が目だけで問い、大夢は小さく頷いた。そこにあった椅子のひとつが、他よりも暗く沈んでいる。

 暗く沈んだその椅子に近づくと、足元の板が低く鳴った。埃を払って座面を持ち上げる。蝶番は錆びていたが、意外と軽く開いた。中は空洞だった。暗闇に目が慣れると、木箱の中にいくつもの細長い瓶と、穴の開いた木片が規則正しく並んでいるのが見えた。

 「…ヘルムホルツ共鳴器」

 奈緒子が息を呑む。「瓶と穴で、特定の周波数を吸う。——人の声帯域に合わせてある」

 瓶の口には半分抜かれたコルク。穴のサイズは三種類。手書きで「2.3k」「3.1k」「4.0k」と鉛筆書きが残っている。脇に折れ曲がった紙片。由依が拾い上げ、広げた。

 小さな丸い書き癖が端に一つ。「監」の字はない。七年前のインクの色。

 「安全のために「声を吸った」のか」

 龍平が低く言う。「けど、応急処置が「仮」のまま残った」

 「緊急時に「声が届かない」のは致命的だ」咲子が頷き、封鎖テープの位置を少し広げた。「今日のうちに「通行止め」。——でも、ここを丸ごと「無かったこと」にはしない」

 奈緒子は温湿度計の横に簡易スペクトラムマイクを置いた。スマホの画面に帯が走る。空席に向かって「あ」と短く出す。波形の山が3k付近でごっそり消える。

 「帳面は「環境側」だけ。中身には触れない」

 彼女は言葉を選びながら、修繕帳に短く書く。

 薄紙を手すりの「外側」に貼る。遠くで蛍光灯が一段明るくなり、段差の縁に控えめな点描の反射が浮いた。声は吸われ続けるが、足は迷いにくくなる。

 「「声の代替」を先に作る」

 由依が言い、黒板代わりの白紙に項目を並べる。

 1)封鎖:立入線+赤札。

 2)代替通信:光合図(点滅灯)+ハンドサイン。

 3)避難:床面点描→緑矢印→階段。

 4)周知:渡し札で広報委パンフ/当日の館内アナウンスへ連動。

 5)史料化:装置は「凍結解除フロー」で保管・検討。

 「「ハンドサイン」、体育の授業でやったやつを流用しよう」

 卓哉が見本のイラストを描き始める。無駄な装飾はない。掌の角度と矢印の向きだけ。

 「「光合図」は?」

 「既存のスポットを「点滅」に切り替えられる。…けど、電源は舞台袖。緊急時に走る距離が長い」

 龍平が顎に手を当てる。

 「なら、「渡し札」。——今日のうちに広報と放送に「沈黙座席」を登録して、当日の役割分担に「点滅役」を足す。停止権は所管教員+公開担当」

 咲子はすでに台帳に新しい欄を作っていた。「「沈黙区画」符号:GY-02。渡し札は二方向。体育館↔放送室、体育館↔広報委」

 封鎖と仮運用の準備が一段落した頃、最奥の闇にもう一度目を向ける。座面の下の瓶は、まだ涼しい音で「黙っている」。

 「これ、史料室に移して調査したい」

 奈緒子が言うと、倉本先生が頷いた。「凍結解除フローに沿って。——「音の史料」として残す価値がある」

 「名前は?」

 「「沈黙の観覧席」。通称でいい。——「無音帯」でもいいけれど、「黙る」のは席ではなく「声の通路」だからね」

 先生の言い方はいつも穏やかだ。

 夕方の検収会。週報の先頭に「旧体育館・沈黙座席(暫定)」の紙が置かれる。東雲は素早く目を通し、三行で整理した。

 「封鎖は妥当。代替通信は必要。——装置の扱いは「凍結」に」

 西田が指先で紙の角を揃える。「緊急時の「叫び声が届かない」は、学校としての責任。文化祭当日は「沈黙区画」を通路設計から外す」

 森本は実務へ落とす。「渡し札の連番は会計で管理。光合図機材は予備を用意。台帳公開もセット」

 成瀬先生が一言、落ち着いた声で添える。「「声に頼らない導線」は、長期的にも価値がある。——聴覚過敏の生徒や来場者にも優しい」

 会議の終わり、司書の倉本先生が古い箱を掲げた。観覧席の陰から出てきた、別の紙片が入っている。

 文字はやはり丸い。七年前の誰かが、あの時点でここまで書いて封じたのだ。

 翌日。館内の壁に新しいポスターが貼られた。

 《沈黙の観覧席(GY-02)のお知らせ》

 ・この区画では声が届きにくくなっています

 ・緊急時は「光合図」と「ハンドサイン」で誘導します

 ・ご不安な方は別席をご案内します

 署名は「運用担当(図書室/公開)」、停止権者は役割名のまま。矢印は人に向けず、出口へ向く。

 開場テスト。放送室のスイッチを合わせ、点滅の練習を三回。舞台袖の「点滅役」は二名。体育館内の「通訳役」は四名。全員、渡し札の番号を首から下げる。

 「沈黙票の条件は「3日短縮」に移す?」と森本。

 「いや、ここは「通常」。——「急ぐほど線を太く」の原則で、掲示と手順を先に太くする」由依が首を振る。

 午後遅く、最奥の席にもう一度戻る。瓶に息を吹きかけると、音にはならず、空気だけが冷たく口元に返ってくる。

 「ねえ」

 大夢は小声で言った。「「声を消した」のは、誰かを守るためだった。——でも、守り方は「止める」だけじゃない」

 由依は頷き、「止める・迂回・見せる」を同じ太さで紙に書いた。

 そのとき、通路の端に白い封筒がすべった。拾い上げて開く。

 監査人の一行は、方向だけをすっと置いて消える。

 夜。修繕室の黒板に新しい行が増えた。

 「言い換えると、「黙る場所には、別の道を置く」」

 咲子が読み上げ、卓哉はポスターの図面をPDFに落とす。奈緒子は瓶の配置図をスケッチに起こし、史料室行きの箱に丁寧に詰める。龍平は舞台袖のスイッチの位置に赤い丸を描き、渡し札に番号を書き足す。

 最後に、大夢は修繕帳の余白に二つの丸を押した。

 赤い細字が一つ。

 大夢は一行、今日の結びを書く。

 旧体育館の観覧席は今夜も暗い。けれど、暗さの中に薄い点描が浮かび、足下の矢印が出口へ続いていた。声は吸われても、道は見える。そこに立つことは、誰かの「まだ」を守ることでもある。

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