第23話_沈黙票の重み

 夜の史料室には、蛍光灯の光と紙の匂いが満ちていた。文化祭まで残り十日。掲示の更新も、渡し札の発行も、すでに日課のように進んでいる。だがその投票箱の底には、見落としがたい沈黙が一枚、重く沈んでいた。

 白紙。名前も意見もなく、ただ条件札だけがホチキスで留められている。——「七日/反対一件で再検討」。

 「「沈黙票」が積み重なってきたな」

 龍平が指で白紙を掲げる。その数は五。黙っているようで、条件付きで見守っている。

 「『賛成』でも『反対』でもなく、「保留」だね」

 奈緒子が椅子に腰かけながら言った。

 「でも、七日間の猶予って、実際にはかなり重い。時間を止める権利に近い」

 由依はペンを回しながら思考を整理した。

 「反対一件と組み合わさった瞬間、検討がリセットされる。沈黙票は、ただの「無視」じゃなくて、「足止め」に変わる」

 実際、渡し札の運用ルールに関する改訂案は、沈黙票と赤票が組み合わされ、一度見直しに戻された。札の台帳を誰が持つか——その一点で。

 卓哉が苦笑した。

 「「無言」がここまで効くの、普通の投票じゃ見たことない」

 「だからこそ、説明責任が強くなる」大夢が答えた。「言葉にされない意見を、こちらが「読み解く」努力が要るんだ」

 沈黙票が何を望んでいるのか。直接は書かれない。けれど、周囲の状況を見れば、意図の影が浮かぶ。

 たとえば——床ライン。

 赤票は「雰囲気を壊す」だったが、沈黙票は白紙のまま添えられた。「撤去」ではなく「条件付きの様子見」なのだろう。

 「沈黙票は「未完成の意見」」

 咲子がメモを取りながら言った。

 「だから、こっちで「補注」を足して、反映の余地を残しておくべきだと思う」

 その夜、新しい紙が掲示に増えた。

 ・沈黙票は「条件付き保留」とみなし、条件が揃った場合のみ再検討

 ・沈黙票が三件以上集まった案は、翌週報で「補注」を付して説明を追記

 ・沈黙票の意図を推測する際、個人名ではなく「状況」単位で言及する

 紙に書き込むと、自然と心が軽くなった。読めない声に向かっても、橋を架けることはできる。

 翌朝、廊下を通ると、観察枠の中に青票が一枚、重ねられていた。

 由依が小さく笑った。

 「…沈黙票自身が返事してきたみたい」

 その日の昼、掲示の前で一年生の二人が立ち止まり、沈黙票のルールを読んでいた。ひとりが言った。

 「これなら「無記入」も意味があるんだな」

 もうひとりは頷いて、白紙の一枚を投書箱に滑り込ませた。

 沈黙は、確かに言葉より遅い。けれど、時間をかけて重なった沈黙は、誰よりも強く流れを変える。

 青票のひと言——「推測は過剰にしないで」。それは「見えない相手の輪郭をこちらが勝手に描き足すな」という釘だった。由依はうなずき、黒板に太字で一行を増やす。

 昼休み、史料室の前で十分だけの「沈黙ヒアリング」を開いた。討論はしない。掲示の前で、公開担当が「今週の条件」を読み上げ、質問だけを黄票に受ける。反対は青でも赤でもなく、白い沈黙票のまま置けるように、透明ポケットを一段分空けておいた。

 「「読めない」の線は誰が引くのですか」一年の男子が尋ねる。

 「「役割」で引く。公開担当が第一稿、監査(生徒会)と司書が立会で確認。名前じゃなく、手順で担保する」

 言葉は体温を持たない。同じ太さで並べるほど、刺さらずに届く。

 午後一番、渡し札の台帳を巡る「やり直し」が再浮上した。沈黙票×五+赤票×一で再検討条件に達し、前日の合意が一旦リセットされている。台帳を誰が持つか——「権限」と「透明性」の境界。

 「会計が「連番・貸出」を持つ。公開担当は「閲覧」。編集権は分離」

 咲子が案を置き、森本(会計)が即答する。「受けます。動線上、毎日触れるのは僕らだし」

 「閲覧は「地上で」。サイトにも「台帳公開(個人名なし)」のページを追加」

 由依が続ける。「「何枚出て、どこへ渡ったか」だけが外から分かるように」

 龍平は腕を組んだまま、短く頷いた。「責任の線が濃くなるなら、止める理由はない」

 窓の外で、急に雨脚が強くなった。廊下の床ラインに水滴が点々と光り、一年がひとり、踵を滑らせかけて壁に手をついた。

 「すぐ「環境側」」

 奈緒子が滑り止めのマットを持ち出し、端部の固定圧を微調整する文言を帳面に置く。

 紙片を廊下の端に貼ると、テープの口がぴたりと伏せた。安全にだけ効かせる、最小の手当て。

 雨は上がらなかった。放課後、渡り廊下に溜まった湿り気を抜くために窓を少し開ける。そこへ、黒い長傘の影がふっと立ち止まった。監査人だ。今日も名札はない。

 彼女は投書箱の上の小さな棚に、白い紙を一枚だけ置いた。

 読み終えたあと、彼女は何も言わず会釈だけして去った。指図ではない。重さの測り方を、ほんの一行で差し替える。

 夜の検収会。週報の末尾に「沈黙票の取り扱い(試行)」と、注記「推測あり/なし」が並ぶ。東雲は最初のページで指を止めた。

 「「読めない」と書く勇気——いい。曖昧さを「曖昧なまま」地上で説明する技術が要る」

 西田は実務に目を落とす。「反対と沈黙の組み合わせで「時間が止まる」懸念がある。文化祭まで十日、印刷の締切は五日後」

 龍平が待っていたかのように口を開く。「だから「緊急モード」を作ろう。条件を三日に短縮。——締切がある案件は止めない」

 「短縮は「ルール破り」に近い。沈黙票に「時間の尊重」が込められていることを忘れないで」由依の声は低い。「もしやるなら、地上で「短縮を宣言」し、理由と停止権者をすぐ横に貼る」

 成瀬先生がまとめる。「——「短縮モード」は非常時運用。発動条件、権限、掲示の仕方を紙に」

 咲子はすでにペンを走らせている。

 1)条件:対外締切が5日以内。

 2)権限:停止権者+公開担当の合意。

 3)掲示:「通常7日→3日へ短縮」を赤枠で明示。理由・終了日・停止権者名(役割)を並置。

 4)事後:週報で「短縮の理由」と「反対・沈黙の扱い」を報告。

 「…これで、線は折れない」由依が頷く。龍平も、少し肩の力を抜いた。「曲げるために、先に紙を固める」

 会がいったん和らいだところで、広報委員会から修正版パンフの束が届いた。渡し札のQRが脚注に入り、「原資料は史料室へ」「反対意見掲示コーナーへ」の案内も印刷されている。二年の相原が指で紙端を揃えながら言う。

 「「固定物に更新を連れていく」って、なるほどね。——助かった」

 「橋があれば、迷わない」大夢は笑い、渡し札の台帳に「外部へ渡し:広報委 30部」と記す。数字は冷たいが、意味は温かい。

 夜更け。修繕室に戻ると、投書箱に白紙が一枚、黄票が一枚。黄票は端的だった。

 森本は即答する。「台帳に項目を足す。緊急モードの連番・開始終了日時・理由・権限者(役割)を記録。——『渡した数=責任の数』『短縮した数=説明の数』」

 壁には「境界マップ」の横に新しい枠が増えた。「緊急モード履歴」。空欄の枠が、最初から透明であることを約束する。

 帰り際、廊下の空気がしっとり冷たかった。窓に寄れば、雨脚は弱まって、ガラスに残る筋がただの影に見える。階段で足を止めたとき、下から二人の声が上がった。

 「「沈黙票」ってズルくない?」

 「ズルじゃない。——「まだ」って言ってるだけ」

 素っ気ない往復。けれど、二人の足は掲示の前で止まり、白い枠を覗き込んでいた。止まる。読む。次の手を考える。その順番さえ守れれば、沈黙は空白ではない。

 修繕帳の余白に、今夜も黒い丸が二つ並ぶ。

 赤い細字が一行添えられた。

 最後に大夢は、今日の一行を書き足す。

 窓の外、雨はようやく上がった。文化祭まで十日。床のラインは濡れても、滑らない。紙の線は曲がっても、折れない。沈黙票は重いが、重さの測り方を決めた分だけ、六人の歩幅はそろった。

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