第22話_境界線の書き換え

 秋風が図書館の窓から入り込み、机の上に広げられた投書票をふわりと揺らした。前夜に出された「沈黙票」の白紙は、条件付き待機のルールに従って掲示されている。その隣には、役割名で記された青票が三枚並び、「展示末尾に原資料への参照を必ず書く」という要求が重なっていた。

 「境界線が曖昧だな」

 龍平が掲示板の前で呟く。

 「「原資料へ参照」は展示側の決定事項だけど、「校外向けパンフレット」は別の部署だ」

 彼の指先が二つの紙をまたぐ。

 由依は頷きながら黒板に線を引いた。

 「沈黙票の条件を処理する前に、まず「どこまでが図書室の責任か」を決めなきゃいけない」

 卓哉が工具箱を抱えて現れた。「境界を物理で見せる?」と冗談めかして言うと、咲子が「視覚的に分けるのはあり」と乗ってくる。

 掲示板を左右二つに区切り、左を「図書室運用」、右を「校外配布」。紙の色も少し違うトーンに変えた。

 午後、匿名の黄票が投函された。

 大夢はすぐ返答票を用意する。

 「境界を線で引いておかないと、沈黙が全部「承認」に吸い込まれる」

 奈緒子がペンを走らせ、修繕帳に小さく書き込んだ。

 夕刻、投書箱から赤票が落ちた。封筒には「匿名」だけが書かれていたが、中身は一文。

 その文言を読み上げた瞬間、空気が重くなった。

 「「無意味」って言葉が、一番危ない」

 由依が低く言う。

 「「無意味」って切り捨てると、そこに隠れてる条件も消えてしまう」

 龍平が返答票の案を口にする。

 「削除って提案そのものが「境界超え」だよね」咲子が指摘する。

 「掲示物を消す権限は停止権者にしかない。匿名の赤票にはその権限はない」

 倉本先生も同意する。「だからこそ返答は『権限外の差し戻しは受けられない』でいい」

 翌日、掲示板の左側に新しい札が加わった。

 1)条件決定=公開担当(会議で合意)。

 2)運用=図書室。

 3)削除権限は停止権者に限定。匿名票の削除要望は「条件強化の要望」に変換。

 昼休み、何人もの生徒がその掲示を読み込み、足を止めた。ひとりが小さな声で「線が引かれたから、書きやすい」と呟き、青票を一枚差し込んでいった。そこにはこう書かれていた。

 「次は「境界の見やすさ」だな」

 大夢は呟き、次の黒板の欄を開いた。

 掲示板の左右を分けた境界の線は、白い紙の上では明快だった。けれど、廊下を行き交う視線の速さや、昼休み三十分という短さの前では、説明の文字は置いていかれる。線は、見えるだけでなく、追いつける太さでなければならない。

 「「見える場所に」って青票、三枚目だよ」

 咲子が言い、卓哉が頷く。

 「動線で見せよう。——「ここから図書室」「ここから校外配布」って、床に細いラインを引く。ポスターの前で止まらなくても、足元でわかるように」

 由依は即座に補う。「色は掲示と合わせる。図書室=灰、校外配布=薄青。太さは同じ。『同じ太さ』が合図になる」

 テープを貼る前に、ルールを紙にしてから。これはもう癖だ。

 ・掲示:左右二分

 ・床面:細ライン(同色・同太さ)

 ・矢印:人に向けない。行き先に向ける

 ・説明:QRで週報の該当段へ直通

 ・更新権限:公開担当/図書室で共同。停止権は別紙

 午後、床にラインが走った。渡り廊下の白いタイルの上、二色の細い道がすっと延び、展示室前でY字に分かれる。足音のリズムが、そこで自然に減速するのがわかった。

 「——で、問題は「線の外」から来るものだ」

 龍平が掲示の右側を指した。校外配布の棚。文化祭で配る予定のパンフレットの試作が、すでにいくつか置かれている。ページをめくると、昨日の展示前レビューで修正したばかりの文が、古い言い回しに戻っていた。

 「「逃げ遅れた」が復活してる…出典注も落ちてる」

 由依の眉が動く。

 制作は広報委員会。悪意はない。ただ、時間がない中で「使いやすい文」を探しに来て、古い掲示を引用してしまったのだろう。線の内側の更新が、外側に波及していない。合流の弁が詰まっている。

 返事は、三要素で。

 ①ご指摘前提:パンフ試作は歓迎。ただし展示本文の更新が反映されていません。

 ②代案:展示末尾にある「出典注・仮名化・反対並置」をパンフにも反映し、該当ページ脚注に「原資料は史料室へ」を明記してください。

 ③理由:校外配布は校内よりも誤解の拡散が速く、『地上で説明』の責任が重くなるためです。

 ——署名は「公開担当」で。個人名は出さず、線だけ残す。

 同時に、境界をまたぐための新しい紙を作った。

 用途:文・図版が境界を越えるときに添える小札。

 記載:出典/更新日/参照先(QR)/「反対並置」有無/停止権者。

 差出:役割名+立会。

 回収:使い回し禁止。更新ごとに新発行。

 「「線」だけじゃなく、「橋」を置くんだ」

 卓哉が渡し札のデザインを起こし、奈緒子がプリンタを回す。灰色の細い縁取り、中央に小さな六角と「監」の字——「人」ではなく「習慣」。地下で読んだ黒板の図を、ここでも借りる。

 夕方、広報委員会の部屋を訪ねた。机の上は色見本とカッターとホチキスで乱雑だが、目は忙しくも明るい。委員長の二年・相原が顔を上げる。

 「ごめん、展示のほう、修正追えてなかった。こっちはこっちで締切が…」

 「わかる。だから「橋」を置く」

 由依が渡し札を差し出す。

 「これをパンフの該当ページに添えて印刷して。QRを踏めば、最新の出典と「反対並置」の状況が見える。「印刷物は固定、説明は更新」の方式にしたい」

 相原は札を裏返し、署名欄の「役割+立会」を指で確かめる。「これ、俺らのほうにも「渡し札」出せる?」

 「。境界は両側から渡すものだから」

 交差点に「譲り合い」の標識が立っただけで、車線は驚くほど滑らかになる。紙でも同じことが起きる。相原たちは快く頷き、古い本文から新しい言い回しへ、脚注の増設へ、手際よく手を伸ばしていった。

 戻る途中、床の細いラインを跨いで、三人の一年が展示室へ入っていく。足がY字で自然に開く。ラインはただの色なのに、身体の速度を整えてくれる。

 夜の検収会。東雲、西田、森本、倉本先生、成瀬先生。机上には渡し札の見本と、パンフの修正前後の紙を並べる。

 「「渡し札」いいね。境界は線で引くだけじゃ足りない、「渡し場」が要る」

 東雲が最初に頷き、西田が指先で札のQRを弾く。「更新が外へ漏れる。説明が「後付け」にならない」

 森本は実務へ落とす。「渡し札の発行管理は共同。連番を振って台帳管理。——『渡した数=責任の数』」

 そこで、投書箱からの白札が一枚、会議室に回されてきた。丸い書き癖の一行。

 監査人の短句だ。成瀬先生が笑う。「線を重ねるのが「共同署名」であり、「渡し札」だね」

 承認。週報に追記されるプロトコル。

 7)「渡し札」を導入。境界を越える文・図版に添付。

 8)渡し札は「両方向」。校外から校内に入る資料にも添付可。

 9)渡し札の連番・台帳管理を生徒会会計が担当。

 10)床面ライン・掲示ライン・QR説明を同一設計。

 翌朝。掲示の前で、地域研究班の二人が渡し札を受け取り、パンフの改訂を広報委へ届けに走る。その脇で、匿名の赤票が一枚、観察枠に入った。

 返事は短く、しかし三要素で。

 ①ご懸念は理解します。

 ②ラインは「期間限定(文化祭まで)」で運用し、終了後は剥離跡が残らない材質を使用します。視覚が不要な方には掲示で代替します。

 ③理由:境界の「地上説明」を動線で補助するため。足元の情報は人に矢印を刺さず、行き先にだけ向かいます。

 ——「停止権」に触れる要求ではないため、調整で返す。個人名は出さない。

 昼、渡り廊下の角で小さな事故が起きた。床ラインの上に、清掃用のモップが立てかけられていて、誰かが蹴って倒したのだ。ラインの途中でワンクッション、流れが滞る。

 「環境側ミスはこっちの担当」

 奈緒子が修繕帳に最小限の文言を置く。

 紙片を廊下の端に貼ると、ラインの端がぴたりと寝つき、引っかかる箇所が消えた。「『直す』は「見栄え」じゃなく「安全」だけ」と、掟は自分たちに向けてもう一度効く。

 夕方、史料室の入口に新しいスタンドが立った。上部に「境界マップ」。左右二分の掲示、床ラインの色、渡し札の見本、そして「停止権の所在」が図式化されている。「停止権者:会長/副会長/会計/所管教員」。名前ではなく、役割で。矢印はどこにも刺さらない。

 投書箱には、白紙の沈黙票が一枚、青票が二枚、黄票が一枚。白には条件札「7日/反対1件で再検討」が添えられ、青の一枚には「渡し札の発行状況をサイトで見たい」、もう一枚には「床ラインの色盲対応」——黄色と青の識別が難しい人への配慮——が書かれていた。

 「色相はそのまま、模様で区別を足そう。図書室=ドット、校外配布=スラッシュ」

 卓哉が提案し、由依が「同じ太さで」と笑う。

 夜。黒板の掟に新しい一行が加わる。

 「言い換えると、「境界は布、橋は札、太さは揃える」」

 咲子が読み上げ、六人の肩が同じ速さで上下する。

 修繕帳の余白に黒い丸が二つ。

 赤い細字が一行だけ添えられた。

 最後に大夢は、今日の一行を記す。

 床のラインは薄いが、廊下の風よりは太い。足を置けば、身体が減速する。減速しだけ、読むことができる。読むことができれば、渡すことができる。——線と札の上で、文化祭へ向けた流れは、少し澄んだ。

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