第21話_沈黙の投書箱

 図書室の入口に置かれた木製の投書箱は、ずいぶんと古いものだった。金属の差し込み口は擦れて黒ずみ、表面のニスもところどころ剥がれている。けれど「ご意見箱」と墨字で書かれた札は、まっ残っていた。

 ある日、大夢が投書箱を覗くと、中に厚めの封筒が一つ、折り曲げられることなく収まっていた。普段なら生徒の質問や本のリクエストが多いのだが、その封筒には「至急」と赤ペンで書かれていた。

 「…また匿名かな」

 由依が封筒を手に取り、開封した。中から出てきたのは、三枚綴りの便箋。そこには、展示室のカードに関する長文の批判が記されていた。

 「また名前がない」咲子が呟いた。

 「でも、言っていることは一理ある」龍平が腕を組む。「ただし、「匿名」である限り、どの立場の意見なのか分からない」

 奈緒子は便箋を指先で軽く弾きながら言った。

 「これは「監査」かもしれないし、「地域の声」かもしれない。あるいは、ただの「生徒の感想」。区別ができない以上、そのまま受け入れるわけにはいかないね」

 卓哉は投書箱の側面をコンコンと叩いた。

 「この投書箱自体が「無責任の温床」になる可能性がある。意見を集めることと、責任を持って返答することは別物だ」

 六人は、図書室の長机に便箋を広げ、検討を始めた。

 「差し戻し票のときと同じく、「匿名」は観察扱いにするのが妥当だろう」由依が提案する。

 「うん。ただし、これだけ長文なら「反対意見の掲示」としては利用できる」咲子がうなずく。「大事なのは「投書箱を閉じないこと」。声が来なくなれば、壁の色は一色に戻ってしまうから」

 「じゃあ、新しいルールを作ろうか」大夢がノートを開く。

 ①匿名投書は「観察票」として分類。展示室の「反対意見掲示板」に転写し、責任ある返答は「役割名」で行う。

 ②署名がある投書は「質問票」または「提案票」に変換し、期限内に返答。

 ③返答は必ず「公開」で行い、個人名ではなく「役割」で署名する。

 「なるほど」龍平が笑った。「沈黙を拒むんじゃなく、「沈黙のままでも扱える場所」を用意するわけだ」

 次の日、投書箱の横に新しい掲示札が加えられた。

 その下には、三色票と同じサイズの小さな青い紙が置かれていた。誰でも取り、投函の際に添えることができるようになっている。

 その夕方、再び投書箱に一通の紙片が入っていた。そこにはたった一行。

 署名はなかったが、六人は自然に顔を見合わせた。

 「沈黙を掲示する…って、面白いね」奈緒子が微笑む。

 「うん、「空白」も一つの声として壁に並べよう」由依が答える。

 こうして、展示室の一角には「沈黙の掲示板」と題したスペースが生まれた。そこには匿名投書や短い無署名の言葉が、観察票として整然と並べられ、誰でも目にすることができる。

 投書箱は、沈黙ごと受け止める場へと変わっていった。

 投書箱の脇に新しい札が二つ増えた。「匿名投書=観察票として公開」「返答は役割名で」。三色票のミニ版も差し込み用に用意され、青(提案)と黄(質問)はそのまま入れられるが、赤(差し戻し)だけは「役割+立会」がないと無効——小さな注意が印字されている。

 昼休み、最初の来訪者は一年の女子だった。青票に「図書室の机、片脚ガタつき」と書いて入れていった。夕方には黄票で「展示の仮名について詳しい説明はどこ?」。そして閉館間際、無地の紙片が一枚、音もなく沈んだ。なにも書かれていない。ただ、角が少し濡れていた。

 「「沈黙」だ」

 由依が紙片を持ち上げ、観察欄に「沈黙×1(時刻16:54)」とだけ記す。

 「掲示板、用意できてる」

 咲子が「沈黙の掲示」スペースに透明ポケットを固定する。そこには空白の紙が並び、横に小さな凡例——「書かれていないことも、ここに並べます。返答は「運用担当」が週報で行います」。

 夕刻、問題の封筒が落ちた。分厚い。便箋三枚。冒頭に「至急」。文面は丁寧だが、最後の段落で個人名を挙げ、展示へ強い断定口調の「差し戻し」を求めていた。署名なし。

 「個人名、出てる」

 龍平が眉を寄せる。

 「匿名+実名の組み合わせは、いちばん危ない」

 由依は息を整え、テンプレの三段を黒板に書く。

 A:個人名を含む匿名投書は、公開の観察票に転写する際、固有名を役割名へ置換(禁止)。

 B:代案として「役割+出典」の形に書き換えて再投函を依頼(代案)。

 C:名指しと匿名の組み合わせは、矢印が「人」に刺さる危険が高い(理由)。

 「掲示は?」

 「固有名を墨で伏せて、観察票として「理由のみ」を出す。返事は『公開担当』で」

 咲子が返答原稿を整え、卓哉が掲示の配置を少し下げる。「視線が刺さらない高さに」

 翌朝、投書箱の差し込み口が引っかかった。封筒が喉で止まるように動かない。

 「口金、歪んでる」

 卓哉が耳を近づけ、金属の返り止めが反っているのを見つけた。

 「受け手側の均一化だけ、やろう」

 奈緒子が修繕帳を開き、最小限の文言を置く。

 薄紙が口金の裏へ貼られ、金属の鳴きが収まる。差し込みは滑らかになり、封筒はするりと落ちた。

 その昼、投書箱はふいに咳き込むみたいな音を立てた。箱の底板が沈み、古い紙が一枚、底の隙間からにじみ出る。

 「…底、二重だ」

 龍平がネジを緩め、倉本先生の立会で底板を持ち上げる。そこには薄い空間があり、茶色に変色した封筒が一通、折れたまま挟まっていた。日付は「七年前」。宛名は「修繕係」。

 由依が慎重に開封する。中は二枚の紙。片方は活字の「意見票」。もう片方は手書きの走り書きだった。

 活字の末尾に、鉛筆の追記がある。

 下に小さく、「対外担当(仮)」とだけ。名前はない。

 「七年前の「返事」だ…」

 大夢は紙を指で撫でる。

 「「沈黙の扱い」の原形、ここにある」

 午後、運用会議。生徒会の東雲・西田・森本、司書の倉本先生、顧問の成瀬先生。丸机に今日の収穫を並べる。

 「「沈黙=同意ではない」を校内ルールに明記」

 東雲が最初に線を引く。

 「「沈黙=条件付き待機」。条件を紙で先に出す。——「次に何が起きたら返事とみなすか」を貼る」西田が続ける。

 森本は実務に落とす。「投書箱の掲示札を差し替えよう。『沈黙票』には事務側から「解釈条件」をセットで付ける。例:『7日間変更なし→現状維持の意見とみなす/反対意見が1件以上→再検討へ』」

 「「みなす」の範囲は限定でな」成瀬先生が補足する。「授業や成績のような個票には適用しない。公開運用に限る」

 会議の勢いで、新しい紙が一枚できた。

 1)沈黙票は「観察」。内容のない紙も掲示。

 2)沈黙は「同意」でなく「条件付き待機」。条件は事前掲示。

 3)返事は「役割名」で。停止権者と手順は別紙。

 4)個人案件へは適用不可。公開運用に限定。

 5)週報で記録し、条件の結果を「地上で説明」。

 会議が解散すると、展示室の「反対掲示」コーナーに小さな柱が立った。白地に黒で「沈黙=条件付き待機」。下に可変のカード——「今週の条件:7日/反対1件で再検討」。明確な線を、先に見える場所へ。

 その夜、匿名の長文便箋に対する返答が掲示された。

 ①ご懸念の通り、展示の偏りは学校の「立場」と誤解されうるため、公開前レビューで調整します。

 ②匿名投書は観察扱いとし、固有名は「役割+出典」へ置換の上、提示・返答します。

 ③「沈黙」は同意ではありません。沈黙票に対しては「条件付き待機」を事前掲示し、条件に達した時点で再検討に移行します。

 ——最後に「出典提供のご協力を歓迎します」。矢印は人へ向かず、道へ向かった。

 「沈黙の掲示」にも変化が出た。空白の紙が増える一方、その横に小さな青票がいくつも刺さる。「条件がわからないから書けない」という沈黙のために、条件札を真横に置いたのだ。

 「沈黙票、今日で五枚」

 咲子が数える。

 「条件に達したら、再検討会を開く。——ここからが本番」

 大夢は砂時計を返し、短い「沈黙の時間」を設けた。三分。誰も喋らない。耳の奥に自分の鼓動が小さく響く。終わりに由依が言う。

 「はい、『沈黙の返事』。——今夜、掲示を一段わかりやすくする」

 卓哉がデザインを起こし、奈緒子がプリンタを回す。「質問→黄」「提案→青」「差し戻し→赤」「沈黙→白」。四色が同じ太さで並んだポスターができた。

 翌日、投書箱の口が開く音がした。白い紙が一枚、落ちる。その次に、小さなメモが滑った。

 署名は役割名。匿名ではない。白のとなりに青が一枚増え、掲示の下に小さな風が通る。

 「条件が「返事」を呼んだ」

 由依が微笑む。

 「沈黙は「通路閉塞」じゃない、「風の手前」だ」

 卓哉の言葉は、少し詩的だったが、しっくりきた。

 午後、写真部から一報。「暗室前の返事板、白紙が溜まってる」。すぐ向かうと、白紙には時刻だけが並び、条件札が外れていた。

 「条件、落ちた?」

 龍平が板の裏を確かめ、画鋲が甘いのを見つける。

 「環境側のミス」

 奈緒子が帳面を開く。

 針が座り、条件札は落ちなくなった。白紙は「待機」の意味を取り戻す。

 その夜、修繕帳に二つの黒丸が並び、赤い細字が添えられた。

 黒板の掟が一行増えた。

 「言い換えると、「まだ、を見えるまま置く」」

 咲子が読み上げ、全員が頷く。

 帰り際、投書箱の横に白い封筒が立てかけてあった。丸い書き癖。中には一行。

 大夢は封を戻し、掲示板の「沈黙」の列の端にその文を添えた。誰にも刺さらない角度で、しかし確かに前へ押す言葉。

 窓の外、夕暮れの風が軽い。投書箱は新しい口金の音で封筒を飲み込み、底で受け止める。空白も、抗議も、提案も、質問も。同じ太さで並ぶ四色の札が、廊下を行き交う生徒たちの目線をすこしずつ止め、そして動かす。

 大夢は帳面に一行、今日の記録を足した。


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