第20話_閉ざされた展示室の余白


 放課後の校舎は静まり返り、渡り廊下を吹き抜ける風が色あせた掲示紙を揺らした。大夢たちは、司書の倉本先生に呼び止められて、歴史資料館の奥にある展示室へと足を向けていた。

 「ここよ。鍵は開いてるけど、昨日から誰も入ってないはずなのに、展示票が勝手に「差し戻し」になってるの」

 倉本先生の言葉に全員が足を止める。展示票は、生徒が地域史を調べてまとめたカードで、公開前に必ず検収の印が押される仕組みだ。その一角に貼られた白い票には、大きく「差し戻し」と赤で記されていた。だが、立会人の署名欄は空白。

 「…役割が書かれてない」咲子が低く呟く。

 「監査の手続きを通していないってことか」龍平が眉をひそめる。

 大夢は、票の余白にうっすら鉛筆で書かれた文字を見つけた。—「理由は「記憶を守るため」」。

 「理由だけが残されてる。でも、誰が? 役割すら書かれてない」

 由依が首を傾げた。「『返事の三要素』の型は守ってる。でも、名を隠している…」

 展示室の奥には、戦前の地域新聞を収めたガラスケースがあった。そこにもまた、同じ書き癖のある票が貼られていた。赤い「差し戻し」の印、署名欄は空白、そして余白には—「「反対も記録せよ」」。

 「監査人だ」奈緒子が呟く。「…ここにも残してたんだ」

 卓哉がガラスを叩きそうになって手を止める。「けどさ、反対を掲示しろって言ってたのは俺たちも同じだろ? なんでこんな形で…」

 「違う、ここは「公開前の展示」。閲覧者が触れる前に、誰かが差し戻してる。…」咲子が言葉を継ぐ。

 「校内のルールと、外部の記録の境界に手を入れてる」龍平が低く結んだ。

 大夢は展示票の端を指でなぞりながら考える。差し戻しの票は、確かに「禁止」「代案」「理由」の型を守っていた。けれど、それを出した「役割」がない。それは、彼らが積み上げてきた「矢印は人に刺さない」という仕組みから外れていた。

 「…このままじゃ、「差し戻し」自体が形骸化する。名前がない票は、ただのいたずらと同じだ」

 そう言った大夢に、由依が頷いた。

 「だからこそ、「余白」を逆手に取るんだよ。監査人が残したのは、理由だけ。じゃあ、私たちは—「役割と代案」を余白に足して返す」

 奈緒子が急いでノートを開く。

 《返答票》

 A:この票には役割が記されていません(禁止)。

 B:差し戻す際は必ず「役割」を署名欄に明記してください。理由だけを残す場合は「観察」と記してください(代案)。

 C:票を読む人が「誰の視点か」を誤解すると、展示そのものの信頼性が揺らぐためです(理由)。

 「これを、監査人の票の横に貼る。—「返事は役割で」を、余白に上書きする」

 夜、展示室の前。黒い布をまとった監査人の影が、遠くの廊下に揺れた。だが近づいては来ない。ただ、掲示板の前に立ち止まり、余白にまた小さな黒丸を二つ描いて消えた。

 その丸を見届けた大夢たちは、初めて知った。差し戻しとは、過去を否定することではない。未来の誰かが迷わないように、余白をつなぐことなのだと。

 展示室の空気は紙の乾いた匂いが強かった。壁のピクチャーレールに沿って、地域史のカードが整然と並ぶ。検収済を示す丸い朱印が押されている列と、まだ空白の列。その境目に、問題の白票——役割も署名もない「差し戻し」が、理由だけを残して貼られていた。

 「返答票、貼るよ」

 由依が透明のクリップで、先ほど作った返答票を匿名票の真横に固定した。太字の三段「禁止/代案/理由」が、同じ太さで並ぶ。

 A:この票には役割が記されていません。

 B:差し戻しの際は、役割を必ず明記してください。理由のみの場合は「観察」と記してください。

 C:読む人が「誰の視点か」を誤解すると、展示の信頼性が揺らぐためです。

 その下に小さく、「署名は「役割名+立会」で」と追記。個人名は出さず、しかし責任の線が紙の上でたどれるように。

 「色も分けよう」

 咲子が三色の細い票を取り出す。赤は「差し戻し」、黄は「質問」、青は「提案」。それぞれの右肩に小さな記号欄——◯記(記録)/◯検(検収)/◯監(監査)——を印刷した。

 「「赤だけの壁」にしない。黄色と青が並ぶと、空気が柔らかくなる」

 卓哉が頷き、ピンで留めながら言う。「面白いのは最後——だけど、色の効果は先に使う」

 そこへ、制作した二人の生徒が恐る恐る入って来た。カードの下の名札に「二年B組・地域研究班」。彼らにとって展示票は、初めての「外への文章」だった。

 「…僕らのが「差し戻し」ですか?」

 由依はうなずき、三色票の前へ案内した。

 「「展示前レビュー」は公開でやることにしたよ。差し戻し=却下じゃない。「次の手」の相談。今日はここで、役割を見えるようにして返事をする」

 彼らは返答票の代案の行を読んで、肩の力を抜いた。

 問題になっているカードを、六人で囲む。タイトルは「○○町戦時下の防空壕」。本文の一段に、聞き書きの記述がそのままの語尾で置かれていた——「Aさんの家は「逃げ遅れた」家として知られている」。

 「「知られている」って誰に?」龍平が問いを短く置く。

 「出典の参照が曖昧」「個人の尊厳に触れる可能性がある」咲子が付箋を二枚、穏やかな角度で貼る。「『反対を含む説明』の原則で、「語尾を柔らかく/出典を増やす/仮名化を検討」の三提案」

 匿名の差し戻し票にあった「記憶を守るため」という理由は、意図として理解できる。だが「誰の視点か」が書かれていない。だから今、役割の線を足す。

 「検収担当としての返事、出します」

 由依が青票に記す。

 ・代案1:「「知られている」→「当時の新聞(○年○月△日)ではこう報じられた」に言い換え」

 ・代案2:「個人が特定されうる箇所は「仮名+関係性の説明」へ」

 ・代案3:「「逃げ遅れた」の断定を避け「避難のタイミングは家ごとに異なった」と複数証言で補う」

 理由は、A3のテンプレに沿って「閲覧者の理解を守るため/当事者と遺族の尊厳を守るため/学校としての公開責任を果たすため」と同じ太さで並べた。

 「監査側からも」

 後方で倉本先生が一歩出る。「司書としての観察:資料に「反対の欄」を設けて、反対意見を並置。——「消す」ではなく、「読む順番を整える」」

 奈緒子は工具箱から水平器を出し、ガラスケースの傾きを直しながら笑う。「環境側の整備、任せて。文字は読める角度で」

 準備が整うと、展示室の入口に「展示前レビュー公開中」の札が立った。三色票が一枚ずつ増えるたび、壁の白は「非難の赤」ではなく「往復の色」に変わっていく。匿名票だけが、理由の一行を残して静かだ。

 「投稿あり」

 咲子の端末が震えた。生徒会サイトのフォームから、町内会の年配の方らしい長文が届く——「「仮名」は逃げの印象を与える。「そのまま」残す勇気も必要ではないか」。

 「返事は役割で」由依が合図する。

 ①ご懸念は理解します。歴史の痛点に「そのまま」向き合う意義を否定しません。

 ②当展示では「当事者の尊厳」と「学びの安全」を両立するため、「仮名+出典の明示+反対意見の並置」で公開します。原資料は史料室で閲覧可、その旨を展示末尾に記します。

 ③全ての情報は「地上で説明できる形」で扱います。お力添えいただける場合、出典情報をご教示ください。

 送信。言葉の矢印は「役割」に立ち、誰にも刺さらない。

 夕刻、展示前レビューに生徒たちがぽつぽつ集まる。匿名票の前で立ち止まる一年が「役割、って書いてないの変だね」と呟く。その横で、二年の地域研究班の二人が、青票の代案を写し取っている。彼らの鉛筆は真っ直ぐだ。

 ふいに、白い封筒が展示台の下から滑って出た。丸い書き癖のメモ。「「差し戻し」はブレーキではない。『坂道でハンドルを切る』ための余白」。署名はない。けれど、読み慣れた温度。監査人が、ここでも方向だけを置いていった。

 「検収会へ持ち帰ろう」

 夜の会議室。東雲、西田、森本、司書の倉本先生、顧問の成瀬先生。壁面写真と三色票の実物を並べる。

 「匿名票は無効ではないが、「観察」に位置づけ直す。効くのは「役割」だ」東雲が最初に線を引く。

 「展示前レビューは公開で継続。差し戻しには「期限」と「次の手」を必置」森本。

 「個人が特定されうる記述は「仮名+出典+並置」。教科の評価とは切り離す」西田。

 「学校として「地上で説明」できるものだけを壁に残す。説明が要る案件は史料室への橋渡しに」成瀬先生。

 承認が出ると同時に、運用文書の骨格が決まる。

 1)三色票を導入。票は「役割+立会」で署名。

 2)匿名票は「観察票」に分類。理由は残し、返答は「役割名」で。

 3)個人尊厳に関わる記述は「仮名+出典明記+反対並置」。

 4)差し戻しには「期限/改善提案/停止権者」を明記。

 5)「地上で説明」の原則——史料室との参照経路を掲示。

 6)週報にレビュー結果を公開、反対意見の掲示コーナーに並置。

 「「坂道でハンドルを切る」。いい比喩だ」卓哉がポツリと言う。「止まるんじゃなく、曲がるために「余白」がある」

 由依は黒板に新しい一行を足す。

 「言い換えると、「止める・問う・進める、同じ太さ」」

 翌日。展示室の入口には手書きの小札が増えた——「反対意見は、こちらへ」「出典の情報提供歓迎」。地域研究班の二人は青票に従って本文を修正し、末尾に小さな行を加えた。「原資料は史料室(仮)にて閲覧可。反対意見は掲示板へ」。文章は、誰にも刺さらない角度へと、すこしだけ曲がった。

 夕方、監査人の影が遠くの廊下に現れ、展示室の前で立ち止まる。彼女は掲示の端を指先で撫で、黒い細字を一行だけ足した。

 読み終えたとき、胸の奥に小さな音が鳴った。止まらずに、曲がる。曲がって、地上で説明する。

 週報には、プロトコルと写真と、三色票のテンプレPDFが添付された。検収印が赤く二つ。

 最後に大夢は、修繕帳の余白へ今日の一行を記した。

 展示室を出ると、渡り廊下の掲示紙が涼しい風にまた揺れた。三色の小さな票が、夕方の光で淡く透ける。誰の名も刺さず、でも矢印は前へ伸びている。それを見て、地域研究班の二人は小さく会釈をした。返事は、壁ごと次の人へ渡っていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る