第18話_雨上がりの史料室
翌週の放課後、旧図書館の一角が解放された。張り紙には「史料室(仮)」と太字で印刷され、下には赤い注意文が並ぶ。—単独入室禁止、滞在上限三十分、上階に待機者配置、換気必須。黒板に刻んだ文言が、そのまま印刷物となって扉を覆っていた。
夕方の空気は雨上がりで重く、蝉の声と濡れた土の匂いが入り交じっていた。大夢は鞄を肩に掛けたまま、扉の前で深呼吸をした。湿った風の中に、鉄の鍵の冷たさが心地よく伝わる。
「今日から公開、だな」
龍平が短く呟いた。彼の手にはストップウォッチ。時間の管理は彼が担うことになっていた。
「誰が最初に入る?」
咲子が笑いながら振り返る。由依は既にノートを開き、開放初日の記録用紙を準備した。
そのとき、校門のほうから駆けてくる足音があった。振り向くと、奈緒子が傘をたたんで走ってきた。雨粒が制服にまだ残っている。
「間に合った…ごめん、調査室で引き止められて」
「全員そろった。じゃあ、始めよう」
由依が鍵を差し込み、扉を開いた。
中は昨日の点検通り、湿度がやや高いが呼吸に苦しくはない。窓を開けると、雨上がりの冷たい風が吹き込んで、積もった埃がやわらかく舞った。
「換気、良し」
奈緒子が温湿度計を机に置く。表示は74%。昨日より少し下がっている。
机の上に置かれた修繕帳は封のまま。閲覧はまだ解禁されていない。ただ、脇の棚には未整理の封筒が数十通残されていた。茶色い紙の角には、油じみが広がっている。
「これ…「差し戻し」の記録じゃない?」
咲子が封筒の束をめくる。差出人の欄には名前がなく、日付と赤い印だけ。宛名は「修繕係」と達筆で書かれていた。
「外部から来た意見、か」
卓哉が声を潜める。
「差し戻しを隠さないって、こういうことだったのかもしれないな」
封筒の中には短い紙片が入っていた。破けたページの貼り直し指示や、誤字の訂正、判読不能の墨痕への補足。細かい手直しが整然と書かれている。
「直すだけじゃなく、「戻す」も記録する。対話だな」
大夢はそう言って、紙片を一つノートに写した。—「墨汚れ、差し戻し。再提出後は検収印を再度捺印」
そのとき、入口で声がした。
「失礼するよ」
倉本先生が現れ、その後ろには二人の一年生の姿があった。彼らはまだ図書委員に入ったばかりで、見学のために呼ばれたのだ。
「今日の記録は、君たちも一緒に残す。ここは「隠し部屋」じゃなくて、公開の場だからね」
先生はそう言い、机の端に置かれた椅子に腰掛けた。
由依は時計を見て、声を張る。
「史料室開放、一日目。立会—司書倉本先生、図書委員白石。公開範囲—地下広間。修繕帳は未使用。観察対象は封筒の差し戻し記録」
声が広間に反響し、一年生たちが少し緊張したようにうなずいた。
「見えるものを「外に持ち帰る」。これが合流の意味だ」
大夢は心の中で繰り返した。
自分たちがやるべきことは、秘密を守ることではなく、秘密をどう開いて伝えるかだ。
雨上がりの窓から差し込む光は弱く、埃を淡く照らする。机の上に並んだ差し戻しの封筒が、その光を受けて茶色に輝いた。
封筒の束を広げると、茶色の紙から乾いた糊の匂いが立ちのぼった。差し戻し票はどれも同じ様式で、赤い斜線と小さな検収印が押されている。欄外に短い走り書きが混じっているものも多い。
「「安全の観点から再設計」…「過剰最適化の疑い」…「目的が曖昧、言い換え要」」
咲子が読み上げ、由依が記録用紙に転記していく。
「この「過剰最適化」って、いま私たちが気にしてる「便利さの暴走」だよね」
卓哉が身を乗り出すと、一年生の一人が小さく手を挙げた。
「「差し戻し」って、怒られてるみたいで怖いですけど…ここでは普通なんですか?」
「普通にしていた、ってことだね」
大夢は封筒の背を指でならし、「直す」より先に「戻す」が並ぶ様子を眺めた。
「失敗や過剰は「呼吸」みたいに出る。だから「戻す」を記録の中に入れておく。隠すと、次の人が同じ場所で窒息するから」
奈緒子が別の封筒を開け、顔を上げた。
「見て。「閲覧注記の文例」。文末に「強い禁止表現を避けること。導く語を優先」って書いてある」
「ほんとだ。『撮影禁止』じゃなく『引用用紙を使ってください』の型」
由依が頷く。「この言葉づかい、私たちが最近選んでるのと同じだ」
龍平は机の端の、より古い封筒へと指を伸ばした。角は擦り切れ、糸で綴じ直した跡がある。
「「全校一括修繕」関係——『説明を先に。魅力は最後』」
読み上げる声に、部屋の空気が重くなる。紙には、七年前の日付と、見慣れた丸い書き癖の追記。
入口のカウントダウンを持つ龍平のストップウォッチが震えた。滞在残り十三分。窓の外では、雨上がりの雲がまた厚みを戻し、湿り気が一段と増す。温湿度計の表示は76%に跳ねた。
「換気量、もう一段」
奈緒子が窓の開口を広げ、上階待機の白石先輩に手で合図を送る。廊下の扇風機が一台、史料室の入口に向きを変えた。
そのとき、スマホのシャッター音が一度、鋭く鳴った。反射的に全員が振り返る。封筒の束の向こうで、一年生のもう一人が真っ青になって立っていた。
「ご、ごめんなさいっ、癖で…! SNSに上げたりしません、ほんとに」
咲子が一歩寄って、慌てる手から端末を下ろさせた。
「ありがとう、言ってくれて。ここでは「撮影不可」なんだ。理由は「写ってはいけない情報が混ざるかもしれないから」。—でも「持ち帰り」はできる。ほら」
彼女はあらかじめ用意していた「閲覧用トレース紙」と細芯の鉛筆を差し出す。封筒の宛名や差し戻しの文言は、「語尾を含めた言い回し」だけを写していい。固有名や番号は写さない。
「「撮るな」じゃなく、「こうやって持ち帰って」。—導く言い方、ここで練習しよ」
一年生はうなずき、深呼吸して鉛筆を走らせ始めた。手はまだ震えていたが、線はまっすぐだ。
残り五分。由依が記録のまとめに入る。
「史料室公開・初日。観察対象:差し戻し封筒群。確認事項:①差し戻しの定型文例、②閲覧注記の文例、③七年前の追記『説明は反対を含む』」
大夢は写真ではなく、スケッチで黒板の六角図と封筒の配置を写し取った。線を引くたび、地下の空気が軽くなる。
閉室の合図の前、入口の床に白い封筒が滑り込む。見慣れた筆致。
短い文は、それだけで十分だった。
鍵を掛け、上階で人数点呼。赤い封緘タグをシールで補強し、ラベルに今日の日付と「公開・初日」を記す。雨は上がったが、雲は低い。
修繕室に戻ると、全員の手から同時にため息が漏れた。由依は机に報告の紙を広げ、咲子が「週報」の枠に流し込む。
・目的:史料室(仮)開放初日の運用と観察の記録
・手段:単独入室禁止/滞在上限三十分/上階待機者配置/換気
・観察:差し戻し記録の体系化/閲覧注記の言い回し/過剰最適化への警句/「説明は反対を含む」
・事象:不意の撮影→手書きトレースへ誘導(記名で保管)
・帳面使用:環境の均一化なし
・監査ログ:司書・倉本/図書委・白石/図書委(1年×2)
「「撮影不可」の説明、もう少し噛み砕いた版も用意しよう」
咲子が付箋を貼る。「『著作権』『個人情報』『文脈の切断』——三つのリスクを図解で」
卓哉が「わかった」とペンタブを手に取りかけ、「最後」と自分で止めて笑った。
龍平はストップウォッチを机に置き、手の跡を眺めた。
「俺、今日、止められたのは「紙のルール」に助けられたからだ。現場で迷ったら、紙に寄りかかる。…それで、正面へ出られる」
「寄りかかれる紙を、先に作る」
由依の言葉は、ここ数週間で何度も確かめてきた線に重なる。
黒板の掟に、新しい一行が加わった。
戻し方を書いて渡す」」
咲子が読み上げ、一年生がメモに同じ文を写した。
検収会は簡易版で行われた。森本が紙束をめくり、「撮影未遂からの誘導、よかった」と短く言う。
「「禁止」だけだと、記憶に残らないから」
東雲が続ける。「史料室の週報は、生徒会サイトにリンクを置く。反対意見の投稿欄もつけよう。「説明は反対を含む」の実装だ」
由依が頷く。「返信は「導く文」の型で返す。煽らない。具体的」
「採用」
そのやりとりだけで充分だった。
会議室を出ると、廊下の窓に夕空がにじんでいる。階段で一年生が立ち止まり、「あの…ありがとうございます」と頭を下げた。
「こわかったけど、トレースで「持ち帰れた」のが嬉しかったです。なんか、役に立てる感じがして」
「それ、いちばん大事」
大夢は微笑んだ。「「持ち帰れるやり方」を用意するのが、俺たちの仕事だから」
夜。修繕帳の余白に小さな黒丸が二つ、揃って押される。
赤い細字が一行だけ添えられた。
最後に大夢は、今日の一行を記した。
窓の外では、雨上がりの匂いがまだ残っていた。史料室の鍵は今夜も赤いタグで眠り、地下へ降りる階段は一本の出口へつながっている。失敗と差し戻しの束は、隠し場所から机の上へ。明日、もう少し良くなるための余白が、茶色い封筒の口にきちんと開いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます