第17話_旧図書館の地下階段
校舎裏にある旧図書館は、普段は鍵が掛けられている。窓枠は剥げかけた白ペンキに覆われ、蔦が夏の湿気を吸い込んで伸びていた。昼休み、由依が鍵を開けると、軋む音が校庭のセミの声を遮った。
中は静まり返っている。棚はほとんど空で、残された本も埃をかぶり、紙の匂いが濃い。床板の隙間から冷たい風が上がってきた。
「ここ、下に空間がある」
奈緒子が床を指先で叩く。音が軽く跳ね返った。
咲子が壁際を探り、半ば隠された鉄扉を見つける。重い錠前がついていたが、倉本先生の古い鍵束に合う一本があった。錠前が開く音は、金属が喉を鳴らすようだった。
階段は石造りで、下に向かって湿った空気が流れている。裸電球が等間隔で吊るされていたが、何年も触れられていないようで、蜘蛛の巣に覆われている。
「電気は?」
卓哉が壁のスイッチを押すと、二つだけ灯りが点いた。暗いままの階段を、六人は一列で降りていく。
下に広がっていたのは、薄暗い広間だった。古い木の机が並び、壁一面に黒板がある。誰かがチョークで残した文字がぼんやりと浮かんでいた。
「…「第零修繕室」?」
由依が声に出す。文字の下に、かすれた図が描かれていた。六角形の中央に小さな円。その周囲を囲む線は、今の修繕帳と同じ形をする。
「誰かが、先にやってた?」
大夢が黒板を指でなぞる。粉が崩れ、指先に白が残る。
机の上には分厚い帳面が置かれていた。表紙は革張りで、角が摩耗する。開くと、日付は三十年前。文章は整った筆跡で、今の修繕帳に酷似した。
「…俺たちだけじゃなかったんだ」
龍平が低くつぶやいた。
その時、天井から一滴の水が落ち、机の端を濡らした。振り返ると、階段の上に影が揺れた。誰かがこちらを見下ろする。
「倉本先生?」
咲子が声をかけたが、返事はなかった。影はと引いていく。残されたのは、階段に響く足音だけだった。
六人は顔を見合わせる。空気が冷たいはずなのに、背中を汗が伝った。
影が階段の上から消えたあと、地下の空気はさらに冷えた。壁に沿って流れる湿気の匂いに、古い糊の甘さが混じる。裸電球が二つだけ点いた広間は、音を吸い込む箱になっていて、誰かが息を整えるたびに、机の脚が鳴った。
「手順、戻すよ」
由依が囁く。短く頷き合うと、彼女は図書館時計を背景にスマホを構えた。
「同期——16:58」
シャッター音が一つ。観察票の右肩に朱字が入る。立会は倉本先生と白石先輩。地下へ降りる前に呼んでおいたとおり、上の扉のそばで待機していた二人が、合図でこちらへ降りてきた。
「…ここに、こんな部屋が」
倉本先生は息を飲み、壁の黒板を見上げた。薄く残る白は「第零修繕室」という文字と、六角形の図。六本の辺に手書きの小さなラベルがある。
中央の小円には、かすれたチョークで「監」とある。
「六角形の辺、六人の役割みたい」
咲子が指でたどる。
「中央の「監」は、「監査」か「監督」だろうな」
龍平が低く言った。彼の声は地下でよく響く。
机の上の革張りの帳面は、角が丸くすり減っている。大夢は表紙だけを撫で、背の金箔文字を読む。
「開く?」と卓哉。
「——「凍結解除フロー」を通すまで、開かない」
由依が先に答えた。「所在を記録して、環境だけ整える」
広間の隅で、ぽたり、と天井からの水が落ちる音。見上げると、石梁の継ぎ目が汗をかいていた。配線の被覆も古い。湿気と電気の組み合わせは、良くない。
「まず「安全」。換気、動線、滞在時間」
咲子が項目を走らせる。倉本先生が頷き、上階の窓を二箇所開けるよう白石先輩に頼んだ。「地下は負圧にすると埃が舞いにくいですよ」
奈緒子は携帯用の温湿度計を机に置き、数値が安定するのを待つ。「湿度78%。このままだと紙が息苦しい」
「帳面は?」
「「環境の均一化」だけ。内容へは非介入」
奈緒子は修繕帳を開いて、文言を短く置く。
紙片を壁の「外側」に貼る。光が石の目の中にひそやかに染み込み、滞った湿気が通路に逃げていくように感じられた。温度計の数字が落ち着く。
「これで長居はできる。——でも「長居はしない」」
由依が砂時計を机に置いた。「滞在三十分、上で一人待機。単独行動は禁止」
ルールは、先に口に出して置くほど強く効く。
黒板の脇には、もう一枚古い掲示が残っていた。やや大きめの楷書。
「合流、か…」
大夢は「地上へ戻す」の部分に目を留めた。地下に溜まっていた線を、また外の空気にすり合わせる。今の自分たちがやっていることと似ている。
奥の棚に、木箱が二つ。片方は鍵が欠け、もう片方は紐で十字に括られている。白い札には薄く「器具」とあり、開けると、手回しの印刷機、古いスタンプ、封緘用の紙帯、そして「公開報告」の古いひな型が出てきた。
——公開報告(旧式)
・目的/手段/観察/差し戻し記録/検収印(円形・赤)/公開範囲
「「差し戻し」を『記録』に入れてるんだ」
卓哉が感心の声を漏らす。
「戻したことを「隠さない」。——七年前と同じ構え」
由依の横顔は冷静だった。
階段のほうから、再び足音。三段ほど降りて、止まる。
「すみません、下に——」
白石先輩の声に続いて、低く落ち着いた女の声が重なる。
「傍聴、いいかしら」
姿を現したのは、何度か置き手紙の文で見知った「丸い書き癖」の人だった。前・生徒会長の姉、監査人。名札は今日もない。
「ここに来るときは、二人以上で」
彼女はそれだけ言って、広間の入口の壁を指先でなぞった。粉がひとつ落ちた場所に、小さな紙を置く。短い文。
言い残すと、彼女は上へ戻った。説教ではなく、線を一本引く言い方だった。
「「地上で説明せよ」」
由依が繰り返す。「じゃあ、ここで決めるのは「地上へ持って上がる手順」」
公開報告(草案)は、その場で骨格が組まれた。
・目的:旧図書館地下広間の所在確認と安全確保
・手段:立会(司書・図書委)/滞在上限30分/換気(上窓二箇所)/温湿度の一時均一化/単独立入禁止/上階待機者配置
・観察:六角図の存在/旧式公開報告一式の遺存
・帳面使用:環境の均一化のみ。資料・内容への介入は不実施
・監査ログ:司書・倉本/図書委・白石/傍聴者(監査人)
・次回:凍結解除フローに基づく『修繕継承録』の閲覧可否を協議(地上で)
「「傍聴者」って書くの、初めてだ」
卓哉が笑い、咲子が頷く。「名前が無くても、関与は残す」
砂時計の砂が尽きかけるころ、奈緒子が壁の結露を指でなぞり、においを確かめた。
「地下臭は薄くなった。——でも、長居は駄目」
龍平は昇降の手順を声に出して確認する。「先頭は先生、次は俺。最後尾は大夢。——上で人数点呼」
地上に出ると、夕方の熱が戻ってきた。旧図書館の窓から、さっき開けた二箇所が涼しい息を吐いている。鍵を掛け、封緘タグをつけ、ラベルに「単独立入禁止」「滞在30分」「上階待機者配置」と太字で書いた。タグの赤は、近頃よく見る安心の色になっていた。
検収会は、その日のうちに開かれた。会議室の白い蛍光灯の下で、報告の紙が並ぶ。東雲、森本、西田。司書の倉本先生と顧問の成瀬先生。
「地下の存在は、学校側としても把握した。ただ、長らく「倉庫」扱いで閉じていた」
成瀬先生が頭を下げる。「安全の配慮が後手に回ったのは、こちらの落ち度だ」
東雲は報告書をめくり、六角図の写真のところで指を止めた。
「「地上で説明する」ための場所を、作ろう。——『第零修繕室』は『史料室(仮)』として、週一で開放。立会・滞在制限・換気・監査ログを条件に」
森本が追加する。「公開報告はサイトにも。——「地下で決めたことは、地上で説明」を徹底」
西田は六角形の辺を見て、薄く笑った。
「「記録・検収・対外・設計・補修・公開」。——どれも、君らに既視感があるだろ」
大夢は頷く。「継承、ですね。俺たちは「始めた」んじゃなくて、「続けてる」」
会は承認で終わった。廊下に出ると、蝉の声が少し弱っている。夏が折り返す音だ。
修繕室に戻ると、黒板の掟に新しい行が加わった。
「言い換えると、「蓋を開けるより、出口を確保」」
咲子が読み上げ、卓哉がマーカーで小さな階段のアイコンを描きかけ——「最後」と由依に止められて、素直にペンを置く。
修繕帳の余白には、ふたつの黒丸。
そして赤い細字。
大夢は今日の一行を、黒板の端に書いた。
窓の向こう、旧図書館の白い窓枠が夕焼けに薄く光っている。地下へ降りる階段は、もう怖くない。ただ、一本の出口がつながっただけだ。六人はそれぞれの鞄を肩にかけ、明日の「史料室(仮)」の開放に向けて、手順の紙をもう一度だけ確かめた。
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