第16話_保健室の冷蔵庫
放課後の廊下は、夕日の光が差し込んで赤銅色に染まっていた。窓の外ではグラウンドの部活動の声が遠くに聞こえ、図書館の静寂とは別世界だった。六人は足並みを揃えて、校舎一階の奥にある保健室へ向かっていた。
「本当に「冷蔵庫」なんだろうか」
大夢が声を落とした。
「比喩じゃない可能性が高い。あの封筒の欄外に書かれていた字は、走り書きだけど明確に「冷蔵庫」って言ってた」
由依が応じる。彼女は胸ポケットから修繕帳を取り出し、そこに小さく「目的:所在確認 対象:保健室冷蔵庫」と書き入れた。
ドアの前に立つと、既に倉本先生が待っていた。手には学校医から借りた許可証と、白い手袋。
「今日のことは養護教諭には説明済みです。ただし、中を見るときは私が立ち会います」
ドアが開くと、薄い消毒液の匂いが鼻を刺した。壁に並ぶベッド、整頓された薬棚、その奥に白い二段式の冷蔵庫が鎮座する。六人の視線がそこに吸い寄せられる。
「記録開始。——「同期:16:45」。」
由依が声を発し、奈緒子がシャッターを切った。黒板に書いたルールが、頭の中でひとつひとつ点灯していく。「触れる前に記録」「立会二名以上」「中身を改変しない」。
倉本先生が手袋をはめ、冷蔵庫のドアに手を掛ける。その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
——カチリ。
扉が開くと、冷気が一斉に流れ出し、頬を撫でる。中は普通の保健室らしく、ドリンクや湿布、冷却ジェルが並んでいた。しかし、下段の野菜室のような引き出しに、違和感があった。
卓哉が身を屈め、息を呑む。「…これ、見ろよ」
透明の保存ケースに、古びた紙束が入っていた。湿気を防ぐためにビニールで二重に包まれ、その外側に白いラベルが貼られている。
「374.2/運用試案集(閲覧制限)」
全員の呼吸が一瞬止まった。まさしく探していた「欠番」がそこにある。
「本当に…冷蔵庫で「冷やされて」たんだ」
奈緒子が呟いた声は、震えながらも感嘆を含んでいた。
「でも、ここで終わりじゃない」
由依が切り替える。「ルールに従う。中を勝手に読まない。ただ「所在を確認した」と記録する」
倉本先生が深く頷く。「確認後は再封緘。閲覧の可否は学校側と教育委員会の判断に委ねます」
大夢は観察票に「所在確認済:保健室冷蔵庫下段/司書立会」と書き込み、写真を数枚撮影した。そのとき、紙束の外装に小さな朱の印が押されていることに気づく。
「…「検収済」の印だ。七年前の日付がある」
「じゃあ、誰かはこれを「見た」ってことだ」
龍平が眉をひそめた。「未返却にされながら、検収印だけ残された」
六人は言葉を失い、冷気の中で立ち尽くす。紙束は確かにここにある。しかし、その存在は七年間も「凍結」されてきたのだ。
「今日はこれ以上は踏み込まない。封を閉じ、所在だけ公表する」
由依がはっきりと言った。
彼らはケースを元の位置に戻し、再び封緘タグを貼り付けた。封を切れば一目でわかるように、赤い紙の帯を重ねる。その手際に迷いはなかった。
観察票の最後に由依が書き加える。
冷蔵庫を閉めると、消毒液の匂いが再び鼻に戻ってきた。今度はそれが、妙に現実味を帯びて感じられた。
保健室を出るとき、夕日が沈みかけていた。窓の向こう、空の端にわずかな朱色が残っている。六人は黙ったまま歩きながら、それぞれの胸に同じ疑問を抱えていた。
——なぜ「凍らせて」まで守られてきたのか。
答えはまだ遠い。けれど、道は確かに一本つながった。
保健室の白いドアが閉まると、廊下の熱気が押し返してきた。冷蔵庫から漏れた冷気はもうないのに、指先だけひんやりした感覚が残っている。指の温度で、封緘タグの赤い紙がふっと柔らいだ瞬間の記憶が、皮膚の内側で続いていた。
「…所在確認、完了。今日は「ここまで」」
由依の声が、線を引く。倉本先生が同意し、立会署名を観察票の下段に入れる。
修繕室に戻る途中、誰も余計な言葉を挟まなかった。歩幅だけが揃っていて、階段の踊り場で鳴る靴音も、六つ分の拍で一致する。
部屋に入ると同時に、咲子が机の中央を空けた。
「「凍結資料」の扱いを決めよう。見つけたのはいい。でも、これを「溶かす」権限は私たちにない。—だから、解凍の「温度管理」だけ設計する」
「温度管理?」
卓哉が首をかしげる。
「凍らせたものは、急に外へ出すと壊れる。だから「いつ、誰が、どの範囲で、どうやって」解凍するかのフローを、外の人が迷わないように紙にして置くの」
由依がペンを取る。黒い線が、紙の上に素早く枝を伸ばした。
1)関係者の同意:司書/生徒会(会長・会計)/顧問/所管教員。
2)目的の限定:閲覧の目的と「何をしないか」を明記。
3)立会:最低二名(生徒会+司書)。
4)時間:最大30分、撮影不可。必要なら再設定。
5)公開:閲覧の事実と目的のみ。内容は公開しない。
6)緊急停止:立会のどちらかが「停止」宣言で即時中止。
7)記録:「誰が、いつ、何のために、どこまで」を残す。
「これを「生徒会協定」の付属にする。…どう?」
咲子が顔を上げると、龍平が短く頷いた。
「善い。—俺みたいな奴が「境界を踏みたくなっても」、紙の線が止める」
そう言った彼の親指と人差し指には、封緘タグの赤をつまんだ微かな跡が残っていた。保健室で一瞬、彼はタグを剥がしかけた。本人が一番よくわかっている。
「悪い。…触りかけた」
「触りかけ「た」。剥がして「ない」。—その差は大きい」
大夢は言い切った。
「境界を踏んだとき、次にどっちへ体重をかけるかで、役割は決まる。龍平は「止まる」ほうを選んだ。なら、次は「影の補修」だ」
「影の補修?」
「冷蔵庫の「環境側」。紙に触れず、受け手の側だけ整える。—結露と温度ムラを減らす」
奈緒子が目を輝かせる。
「やる。帳面は「結露抑制の微弱な均一化」だけ。内部の温度を一時的に2℃幅に収める。紙の水分には触れない」
修繕帳に言葉が置かれ、薄い光が紙面に混じった。
「それ、先生の許可が先ね」
由依が制止を入れ、すぐさま保健室へ連絡。許可が降りると、奈緒子は紙片を冷蔵庫の「外装」に貼った。中ではない。外から、周囲環境を整える。
「公開報告も「二本立て」で。『所在確認』と『環境整備(非介入)』」
咲子の段取りで、文面が整っていく。紙の端に「監査ログ:司書・倉本/養護教諭・立会」と黒字が増える。
そのとき、扉の下を白が滑った。利き手のない書き癖の封筒。中には一枚、薄い紙。
丸い文字。名前はない。
「…詩人だ」
卓哉が呟き、誰も否定しなかった。
夜の検収会。会議室の空調の音が聞こえるほど静かだ。生徒会長の東雲、副会長の西田、会計の森本、司書の倉本先生、顧問の成瀬先生。六人は報告書の束を並べ、順番に読み上げた。
「所在確認のみ。内容は未閲覧。環境側のみ整備。—「凍結解除フロー」の提案は、こちら」
由依がフロー図を差し出す。森本が目を通し、二箇所に線を引いた。
「「再設定の上限回数」と「閲覧参加者の範囲」を明記して。延々と続くと、いつの間にか「慣れ」が始まるから」
「了解。上限は三回/学期。参加者は「関係者+監査側」に限定」
咲子がその場で修正を反映し、東雲が「採用」と短く言った。
西田が封筒の文を読み、眉だけを少し下げる。
「「言葉を連れて来るときだけ」。開けるなら「説明できる人」がいるとき、か」
「説明も、責任も」
成瀬先生が穏やかに補う。「七年前に凍結した理由は、誰かが「熱」を恐れたからだ。けれど、完全に封じたら、熱は別のところへ回る」
会は十分で結論へ至った。
・所在公表は「参照経路のみ」
・環境整備は「外側・非介入」
・凍結解除フローを生徒会協定の付属として採用
・初回の「閲覧予備会」は、夏休み明けに関係者を限定して実施
解散のあと、会議室の外で龍平が立ち止まった。
「…俺、今日さ、剥がしかけた」
「知ってる。指が言ってる」
大夢が笑わずに言った。
「次から、その指は「温度計」にしてくれ。熱くなってきたら、先に言う」
龍平は小さく頷き、手袋を握り直した。
翌朝。生徒会掲示板に「所在確認(閉架資料)」と「凍結解除フロー(案)」が貼られた。個別名は出さない。でも、「道」は外に見える。立ち止まった一年が、紙を読みながら友達に言う。
「「開けないのに、開け方が貼ってある」の、変な感じ」
「変だけど、安心する」
小さな会話が、紙の縁に重なっていく。
放課後、保健室へもう一度だけ寄った。冷蔵庫の外装に貼った紙片は、薄く光を失っている。温度計の振れは小さく、結露は出ていない。封緘タグは赤いまま。
作業を終え、修繕室へ戻ると、黒板の掟に新しい行が足された。
「湯を沸かしすぎない」」
咲子が読み上げ、卓哉が「比喩が多いな」と笑い、奈緒子は温度計のデータをUSBに落とす。由依は「閲覧予備会」の出席者欄を空欄のまま印刷し、龍平は冷蔵庫の周りの床に「立入線」を細く引いた。
修繕帳の余白に、二つの黒丸が今夜も並んだ。
その横に、赤い細字が添えられる。
最後に大夢は、一行を書き足した。
窓の向こう、校庭の端に夕立の名残りがまだ光っている。冷たさと温かさの間に、一本だけ細い道が伸びていた。その上を歩く足音は、今日も六つ、同じ拍でそろっている。
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