第15話_図書館の閉ざされた棚

 夏の光が傾き始めた放課後、校舎裏に面した図書館のガラス窓は、重く曇ったように見えた。大夢は修繕帳を抱え、由依と並んで扉を押し開ける。

 中はひんやりとして、紙の乾いた匂いと古いワックスの香りが混ざり合っていた。咲子が持ってきた懐中電灯で奥を照らすと、本棚の最奥、鉄製の柵で囲われた一角が現れる。普段は開かない「閉架」の棚だった。

 「鍵、かかってるはずだよな」龍平が呟く。

 だが柵は、誰かが内側から押したように開いていた。

 奈緒子が指先でその隙間を確かめる。「…外じゃなくて、中から?」

 卓哉が冗談めかして「本が出てきたんじゃない?」と笑ったが、その声は図書館の天井に吸い込まれ、軽く震えただけだった。

 由依は柵に手を添え、押し広げた。軋む音とともに現れたのは、ぎっしり詰められた古い書物。そして、その中央にぽっかりと空いた空白の棚。そこだけが、不自然に真新しい木目を覗かせている。

 「帳面だ」

 大夢が呟く。目の奥に一瞬、焦りがよぎる。修繕帳に残された、かつての記録。校舎の奥深くに眠らされていた別の「帳」が、ここに隠されていたのかもしれない。

 六人はその棚を囲み、息を呑んだ。

 空白の棚は、絵の中の消しゴムあとみたいに不自然だった。そこだけ木目が新しく、左右の本の天(てん)にだけ薄く埃が乗っている。誰かが最近、そこから何かを抜いた。しかも、何度か。

 「独断で触るのはナシ」

 由依が囁き、六人は一度退いた。司書の倉本先生と図書委員長の白石先輩に連絡を入れ、閉架の鍵と立会をお願いする。運用協定どおり、最初の手順は「呼ぶ」だ。

 数分後、倉本先生が小走りで現れた。白石先輩は額の汗をハンカチで押さえながら、柵の隙間を見て息を呑む。

 「…ここ、鍵は朝、確かに閉めたのに」

 「内側のラッチが甘いです。湿気で歪んでる」

 龍平が金具を覗き込む。確かに、押し戻すと簡単に噛み合ってしまう程度のずれだ。閉まっている「つもり」が、閉まっていない。

 大夢は記録係の由依に頷き、時間の同期写真を撮る。図書館時計を背景に「同期:16:12」。観察票の右肩に朱字が入った。倉本先生が鍵を回し、柵の前で深呼吸をひとつ。

 「開けます。——「見る」だけ。ルールはいつも通り」

 柵が開くと、紙と布と糊の古い匂いが一段濃くなる。空白の段を挟むように並ぶ背布は、郷土史や学校沿革、古い委員会の議事録。白石先輩が指先で棚板を撫で、微細な縞を示した。

 「ここ、四つ角に圧痕。布ヒモで括られた「束」が置かれてた跡です。幅は…指二本半」

 奈緒子がメジャーで測り、観察票に「約48mm」と書き込む。

 「中身の候補、しぼれる?」

 咲子が背ラベルを順に読む。「NDC370番台、学校経営。棚番号の飛び、「374.1」の次が「374.3」。「374.2」が欠番になってる」

 「欠番…七年前の『欠番』に似てる」

 由依の声がほんの硬くなった。元顧問の最後のログに残っていた「欠番」という言葉が、背筋を冷やす。

 そのとき、大夢が棚の背板と壁の隙間に、何かが落ちているのを見つけた。細長い、背ラベルの剥がれかけた紙片。ピンセットで拾い上げる。黄ばんだ紙には、細い書体でこう記されていた。

 その下に小さく、鉛筆で走り書きがある。

 「「M・S」…誰?」

 白石先輩が眉を寄せ、倉本先生は首を傾げた。「顧問の「真壁(まかべ)先生」と…「篠目(しのめ)先輩」かもしれない。七年前の生徒会長。「姉」はもっと上の世代だけど——」

 「名寄せは後。今は「参照経路」を立て直す」

 由依が切り替えた。紙片は脆い。角がふやけ、指の温度で文字が溶けそうだ。

 「紙繊維の補修だけ、やる」

 奈緒子が修繕帳を開く。文言は短く、限定的に。

 紙片の裏に置いた修繕紙が淡く光り、輪郭が崩れない硬さを取り戻す。内容は一切触らない。ルール⑨と⑮の線の内側だけ。

 「『運用試案集(閲覧制限)』…」

 咲子が呟く。「閉架のこの棚は「過去の運用」の資料置き場。なら、ここへ戻すのが第一。だけど——中身そのものはどこ?」

 棚の床に膝をついて覗き込むと、奥の角に薄い木粉が溜まっていた。そこに、ほんの僅かだが「擦過」の跡。何かを引き出したとき、床で擦った。大夢は照明を低くして角度を変え、微細な線の方向を確認する。動かした方向は「手前から右へ」。右の側板には、外れかけのネジ穴。

 「無理な角度で引き抜いてる。——急いでいたか、隠していたか」

 龍平が低く言う。彼の指は、逃げ道と追い道を同時に知っている指だ。

 「でも、隠したなら「どこへ」。閉架のあるいは…」

 由依が言いかけたとき、白石先輩が「あっ」と短く声を上げた。

 「『閲覧票』の箱。返却予定の控えがあるはず」

 カウンター裏の小箱から、七年前の閲覧票が出てきた。紙は乾き、角が丸くなっている。日付は「11/02」。資料名に「運用試案集(閲覧制限)」、利用目的「校内運用確認」、立会「真壁・篠目」。返却欄には、薄い斜線が引かれているだけで署名はない。

 「返却「未確認」の斜線だ。戻ってない」

 倉本先生の声が僅かに震えた。「…でも、閉架からは「消えた」。じゃあ——」

 「図書館の外へ出た、ってこと」

 由依が言う。六人の視線が交差し、空気が重くなる。資料が外へ出た。運用の「試案」が、で今も生きている可能性。

 「ここから先は、「探す」より先に「線を引く」」

 咲子がペンを握る。公開報告とは別に、「閉架の運用補足」を起こす。

 ①閉架ラッチの調整と封緘タグの導入。

 ②「閲覧制限資料」の貸出禁止徹底、閲覧は立会二名・記録席で。

 ③返却未確認資料の一覧を「開示」。場所は図書館前掲示とサイト。

 ④当時の関係者への聞き取りは「司書経由」。直接の捜索はしない。

 ⑤見つかった場合も「内容は公開せず、所在のみ」。参照経路を整える。

 「言い換えると、「暴かない・隠さない・道だけ出す」」

 由依が結ぶ。倉本先生は深く頷き、鍵束を握り直した。「封緘タグは今すぐ準備します。閲覧票の未確認は、私から学校側に報告する」

 そのとき、書架の下から小さな音がした。紙が擦れる音。卓哉が身をかがめ、手袋越しに薄い封筒を引き出す。宛名のない、古い角封筒。封は切れて、すでに何度か開閉された跡。中には三枚の紙が入っていた。内容は、抜粋のような断片だけ。

 ①効率化は「痛み」の代替にならない。

 ②「差し戻し」は倫理の装置。

 ③「検収」は誰のためにあるか、常に外へ開く。

 欄外に鉛筆で小さく、「保健室の冷蔵庫に一式」とある。

 「…保健室?」

 奈緒子が顔を上げ、由依と目が合う。次の行き先が、紙の端に小さく指し示された。七年前の「運用試案集」は、図書館からいったん出て、に「冷やされて」いる。

 「封筒は——」

 「図書館のものじゃない。紙質が違う。…でも証拠としては十分」

 倉本先生は封筒を持ち上げ、ためらいなく「閲覧票」にホチキスで留めた。「ここに来た経路を、誰も一人で辿れないように」

 修繕帳は、余白に小さく印字を増やした。

 「仮通過、か」

 大夢が息を吐く。「なら、ここで「終わらせない」」

 「終わらせないけど、急がない。保健室には「冷蔵庫」と「人」がいる」

 由依の声は落ち着いていた。何かを見つける前に、触れ方を整える——この数ヶ月で身についた癖だ。

 公開報告は、簡潔に、しかし「外に出す」分だけ丁寧に整えた。

 ・目的:閉架の「参照経路」の復旧と未返却資料の把握

 ・手段:ラッチ調整/封緘タグ/閲覧立会二名/未返却一覧の掲示

 ・観察:「374.2 運用試案集(閲覧制限)」の返却未確認。封筒より「保健室」示唆

 ・帳面使用:背ラベル紙片の紙繊維補修のみ。内容改変・復元は不実施

 ・監査ログ:司書・倉本/図書委員長・白石 立会

 ・次回予告:保健室の所在確認を「司書経由」で申請

 掲示板に「未返却一覧」が出ると、廊下で足を止める生徒が増えた。「返してないの、誰?」という囁きに、一覧の下の一行が釘を刺す。

 修繕室へ戻ると、黒板の掟に新しい行が加わった。

——温めるのは、環境だけ」

 咲子が読み上げ、卓哉は「保健室にアイス枕借りに行く口実ができた」と冗談を言ってからすぐ、「面白さは最後」と自分で口を押さえた。奈緒子が笑い、龍平は封緘タグのサンプルを指で弾いて、剥がした時の「紙の悲鳴」を確かめる。

 夜、修繕帳にふたつの黒丸が並んだ。

 最後に大夢は、今日の一行を記した。

 図書館を出ると、廊下はもう薄暗かった。保健室の窓の向こうで、白い冷蔵庫が光っているのが見えた。そこに、この続きが冷たく眠っている。六人は足を揃え、明日のために歩幅を落とした。


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