第14話_旧体育館の軋む床
夏休み明けの午後、昇降口に張り紙が一枚貼られていた。
しかし、委員会宛に届いた通報用紙には別のことが書かれていた。
「夜、旧体育館の中からバスケットボールの弾む音がする。けれど窓越しに見ると誰もいない。床だけがひとりでに揺れている」
大夢は用紙を指先で二つ折りにしながら、仲間に言った。
「物理的な劣化だけなら建設業者が調べて終わり。でも、音と揺れが「人を寄せる」性質なら、放置は危険だ」
由依はすぐさま地図を広げ、旧体育館の平面図を確認した。渡り廊下からつながる鉄扉は施錠されているはずだが、裏口の引き戸は古く、閉まりきらないと噂されている。
「床材は昭和期の松材、ワックスの層も剥げてる。普通は沈み込みはしても「弾む」ことはない」奈緒子が指で床の断面写真を示した。「板そのものが「記憶してる」。バスケ部の練習のリズムを」
咲子は眉を寄せる。「じゃあ、踏んだらどうなるの? 人が弾まされる?」
「弾むのは「人数」に依存するかもしれない。一人なら沈む、五人なら揺れる。十人なら…跳ね返す」龍平の声は低く響いた。
調査の準備は入念だった。
・安全靴とヘルメットを着用
・床の沈下量を測るための簡易ジャッキとメジャーを用意
・録音機器を複数配置し、「無人の弾み音」を確認する
・修繕帳は「安全補助のみ使用」の原則
午後四時。部活の音が遠ざかり始める頃、六人は裏口の隙間を通って旧体育館に入った。空気は埃と木材の匂いで満ち、薄暗い。ステージ上のカーテンは色褪せ、リングには蜘蛛の巣が垂れ下がっている。
「…静かだね」咲子が囁いた瞬間。
コツン。
床の中央から、乾いた音が一度だけ響いた。誰も動いていないのに、見えないボールが落ちたかのように。
卓哉が砂時計を裏返す。「三分観察。誰も動かさない」
沈黙の中で、音は一定間隔で続いた。コツン、コツン。練習のドリブル。
由依は視線を巡らせ、ステージの袖に小さな揺れを見つけた。カーテンの裾が、ドリブルのリズムと同期して震えている。
「…床だけじゃない。空気が連動してる」
龍平がメジャーを床の隙間に差し込むと、板は上下した。最大で三ミリ。人の体重がかかっていないのに。
奈緒子は修繕帳を開き、短く書いた。
ページが淡く光ると、床下から木が軋む音がして、揺れは止まった。
だが同時に、体育館全体が深く息を吐くように鳴った。壁がみしりと音を立て、窓ガラスが震える。
「…「止めすぎ」かもしれない」由依が顔を上げる。
大夢はうなずいた。「次は「平均化」。一部だけを止めず、揺れを散らす」
奈緒子が修繕帳に新しい文言を足す。
光が走り、床板の軋みが体育館全体に淡く広がった。ドリブル音は途切れたが、かわりに「誰かが走る」ような微かな振動が板を渡っていく。
「…これはもう、「記憶の再生」だね」咲子が呟く。「練習してたときの足音を、床が演じてる」
六人は立ち尽くした。止めることはできても、消すことはできない。記録を抱えた材木は、時間を超えて動き続けるのだ。
床が「走り」を再生している—そう理解した瞬間、六人は言葉を失った。止めることが「正しい」とも限らない。けれど、放っておけば誰かが夜の音に引き寄せられる。安全と記憶の綱引きが、埃っぽい空気の中で始まった。
「第三案を出そう」
由依が指を一本立てる。声は小さいが、揺れと同じ周期で落ち着いている。
「一、危険は止める。二、記憶は残す。三、「聴く時間」を決める」
咲子が頷き、メモに柱を書き出す。
「ゾーニングとタイムテーブル。床の「共振域」だけ人を入れない導線を作る。夜の勝手な侵入は完全禁止。代わりに安全な「聴き取り」を、立会いのもとで」
「具体は?」
龍平が周囲を見回す。舞台袖、バスケットゴール下、センターサークル—揺れの「道」は、古い攻守の切り替えと同じように体育館を斜めに横切っている。
奈緒子が膝をつき、板の目を指でなぞった。
「床下の根太(ねだ)、間隔が場所で違う。ここ、センターサークルの外周は支えが疎で「鳴り」やすい。逆にサイドライン沿いは梁が詰まってる。危険なのは前者。——「鳴らす場所」と「通る場所」を分ける」
卓哉が準備室から黄色と黒の養生テープ、古いノンスリップマット、立て看板の白木枠を抱えてくる。
「『こちら側に入らないでください』じゃ固い。『聴取帯』『通行帯』って呼び分けよう。ついでに「聴き方」のコツも描く。「走らない、拍を数える、拍手しない」とか」
「面白さは最後ね」由依が釘を刺す。
「…はい」
案が形を持つにつれ、大夢は修繕帳を開いた。言葉を削る。
紙片をセンターサークルの外側、通路として選んだ帯に沿って数枚だけ貼る。床下に柔らかな圧が広がって、沈みは「鈍い撫で」に変わった。揺れは体育館全域に薄く広がり、局所の跳ね返りは消える。
「危険は減った。記憶は残った」
由依が砂時計を返し、三分間、全員で一歩も動かず耳を澄ます。
——コツン、タタタ、コツン。
音は「遠く」なった。けれど、消えてはいない。
「公開の段取り、組む」
咲子がテンポよく指示を飛ばす。
「①生徒会に「立入禁止の継続+立会い聴取会」の提案書。②保健・用度・顧問に安全計画。③「記憶聴取会」のルール掲示—「走らない/触らない/録音は一部可(機材固定)/終了時刻厳守」。④卒業生・バスケ部OBに連絡」
「OB?」
「「覚えてる人」がいたら、音に意味を与えられる」由依の目が強くなる。「勝手に「怖い話」にしないために」
ちょうどそのとき、裏口の引き戸が小さく鳴った。差し込まれた細い封筒。丸い癖のある文字。
監査人の置き手紙だ。こちらを止めるでも煽るでもない、「線の引き方」だけを示す言葉。
夜、提案書は最短で通った。生徒会は「立会い聴取会」を週一・日没前の三十分に限定し、顧問・会計・放課後リペアログが交替で見張りにつくこと、侵入者があれば即時通報の手順を掲示することを条件に承認した。
初回の「聴取会」。体育館の照明はつけず、窓際の常夜灯と非常口灯だけ。通行帯の養生テープは、暗がりでも見える蓄光の細い線に換えた。入り口で手渡される紙には、こう記されている。
数分後、OBだという三十代の男性が来た。胸ポケットに古いキャプテンバッジ。
「…ここ、最後の年、地区準決勝の前日に足を捻って、個人練習だけしてた。ドリブル、変な癖ついて、ここがよく鳴った」
センターサークルの縁に目を落とす彼の手が少し震える。音は、彼の記憶に重なって輪郭を得た。怖さが意味に置き換わる。
由依は頷き、「ありがとうございます」とだけ言った。大夢は録音機材の前で、波形が静かな山を作るのを確認する。卓哉は看板の端に「『ありがとう』は拍手でなく会釈で」と小さく付け足した。
会は三十分で終わった。最後に合図の砂時計を置き、由依が言う。
「終わりです。——止まりましょう」
床の鳴りは、素直に遠のいた。
片づけののち、公開報告を書く。
・目的:旧体育館における「危険な共振」の抑制と「記憶の無秩序な拡散」の防止
・手段:通行帯の沈下均一化(±1mm以内)/「聴取帯」のゾーニング/養生(蓄光)導線/立会い聴取会(週一・三十分)/侵入即停止手順
・観察:局所跳ね返りの消失/「走りの記憶」の可聴性は残存/夜間の無人鳴動は減衰
・帳面使用:均一化(安全)に限定。「記憶の削除・限定開封」は不実施
・監査ログ:生徒会会計・森本確認/顧問・成瀬立会
翌朝。修繕帳の余白に黒い丸が二つ並ぶ。
その右に、赤い細字。
ページの上で、時間が重なる。
修繕室に戻ると、黒板の掟に新しい行が足された。
「「消す」は楽だが、戻せないからな」龍平がぼそりと続ける。
夕方、養生テープを張り替えていると、卓哉が天井の梁を見上げた。
「ここ、音がよく跳ね返る。——文化祭で、「この体育館の声を聴く展示」やろう」
奈緒子が目を輝かせる。「固定マイク三本、波形を可視化して「鳴りの地図」を作る!」
由依が微笑む。「「面白さは最後」。でも、最後にしては、良い」
帰り支度の前、大夢は今日の一行を帳面に足した。
扉を閉めると、旧体育館はいつもの静けさに戻った。けれど、そこには線があった。入っていい線と、立ち止まる線と、耳を澄ます線。線があるから、誰かが迷わずに済む。
外に出ると、夕立の名残りが校庭に薄い鏡を作っていた。風が通り、遠くでボールの音が一度だけ跳ねた気がした。誰のものでもない、でも確かに「誰かの」音。六人はそれぞれの鞄を肩にかけ、鳴りの残響とともに昇降口の灯りを落とした。
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