第13話_美術室の静物画

 夏休みが迫る七月の放課後、美術室には独特の静けさがあった。窓の外で蝉がしつこく鳴き続けているのに、厚いカーテンで仕切られた室内は、時間が止まったみたいに涼やかだ。絵具の匂いと、木製イーゼルのきしむ音が、静物画の空気を形づくっている。

 由依がイーゼルの前に立ち、並べられた果物や壺を見つめていた。クラス全員が描いているその構図は、正面から見るとただの林檎と陶器の壺なのに、光の当たり方で表情が変わる。

 「…動いてる、みたい」

 由依が呟くと、大夢は眉を上げた。「止まってるよ、果物だし」

 「そうじゃなくて。光がね」

 たしかに、窓から差す西日が徐々に角度を変え、壺の影が長く伸びていた。モチーフ自体が生き物みたいに呼吸する。

 奈緒子は筆を置き、観察を続けていた。「影の伸び方が普通じゃない。…描き手を試してるような」

 「「試す」って、どういう?」龍平が笑うが、その笑みは硬い。

 次の瞬間、果物の林檎がほんの転がった。誰も触れていないのに。空気が一斉にざわつく。

 「今、見た?」「見た」

 全員が頷く。偶然で済ませるには不自然すぎた。

 卓哉が軽口を叩こうとしたが、言葉の前に咲子が遮った。「これ…また「修繕帳」案件じゃない?」

 大夢は鞄から帳面を取り出す。机に置くと、勝手にページが開き、白紙の上に淡い線が浮かび上がる。

 「…なんだよこれ。誰かが書いたみたいな」龍平が覗き込む。

 奈緒子は思い切ったように立ち上がり、林檎に手を伸ばした。けれど触れる直前、果物はするりと転がり、机から落ちそうになった。慌てて卓哉がキャッチする。「危なっ!」

 林檎の表面には、指で描いたような跡が残っていた。だが誰も触っていない。

 「この「跡」、…「描かれた線」みたい」咲子が呟く。

 由依は胸の奥でぞくりとした。絵に描こうとすればするほど、モチーフがこちらを見返してくる。静物画の授業が、試験でも課題でもなく、「誰かからの挑発」に思えてきた。

 「どうする?」大夢が仲間たちを見渡した。

 「とりあえず…修繕帳に記録しよう」由依が答える。

 その文字を残した瞬間、林檎の影がすっと静まり、壺の縁も揺れをやめた。記録されたことで、存在が満足したように。

 だが誰も口には出さなかった。これは始まりにすぎないと、全員が感じていたからだ。

 林檎の影が鎮まってからの数分、美術室は誰も筆を動かさなかった。窓の向こうの蝉しぐれだけが続き、油絵具の匂いがと呼吸する。

 「…いまの、偶然って言い切れないね」

 由依が囁くと、大夢は頷きつつ、修繕帳に視線を落とした。淡い行が、さっきの一文の下にもう一段、にじむように現れている。

 「平均…って、どういうこと?」

 咲子の問いに奈緒子がモチーフ台の周りを一周し、床のテープを指で弾いた。

 「「こう見えたらいいな」って観察者の期待が重なると、モチーフが「最短で多数派に寄る」。。仮説」

 「じゃあ、みんなで一度に見なければいい?」卓哉が顔をしかめる。

 「「観察の順番」を作る、が第三案として自然だね」由依が即答する。「それと「光」の均一化」

 手順を組み立てるのは早かった。六人は美術室の隅からカルトンと養生テープを持ち出し、床に小さな×印を等間隔に貼る。「観察席A~F」。イーゼルの脚にも目印を付ける。窓にはトレーシングペーパーを二枚重ねで仮留めし、スポットライトの角度を壺の口の真上から右斜め上へ三度だけ振った。光源の位置はチョークで壁に丸印を付け、メジャーの数値を記録する。

 「「基準時刻」も入れるよ」由依が言い、図書館時計の写真を背景に、スマホで「同期写真」を一枚。観察票の右肩に「同期:14:42」の朱字が入った。検収会で決めた癖が、もう体の一部みたいになっている。

 「観察は一回三分。合図はメトロノームじゃなくて砂時計で」卓哉が美術準備室から古い砂時計を見つけてきた。「音より、砂のほうが静物に優しい気がする」

 龍平はモチーフ台のガタを確かめ、脚の一つが短いのを見つけた。紙切れを噛ませ、水平器で泡を中心に寄せる。

 「帳面は?」と奈緒子。

 大夢は首を横に振る。「「安全性の回復」以外は使わない。動かない静物を「固定」しちゃうと、表現に介入になる」

 「了解。—じゃ、俺は壺のひびに薄和紙を一枚、裏から当てるだけ。紙繊維の補修、内容への介入なし」

 奈緒子の指は丁寧だった。修繕帳に最小限の文言を書き、紙片を壺の底面へ。淡く光って、ひびの縁のささくれだけが落ち着く。

 準備が整うと、筋の通った静けさが戻ってきた。観察席Aに由依が座り、三分の砂が落ちる。彼女は筆を置いたまま、ただ見る。光の縁、壺の口の楕円、林檎のテカリの位置。砂が落ち切る直前、林檎は—動かなかった。

 「次、B」咲子が時計を見て促す。席が変わるたびに、六人が息の音だけでやり取りする。C、D、E、F。どの三分にも、モチーフは沈黙を守った。三人以上が同時に立ち上がると、テーブルの角で影が伸びかける—が、砂の終わりとともに戻る。

 「閾値は「同時視線」っぽいね」

 奈緒子が観察票に書き込む。龍平は腕を組み直して言った。

 「なら「同時」を避けて「順番」を見せればいい。『見る』のルールを掲示する」

 ちょうどそのとき、美術科の杉浦先生が入ってきた。短い前髪の下から、鋭いけれど熱のある目がこちらを射る。

 「…お前たち、何をしてる」

 「静物が「動く」現象への一次対応です」大夢が立って説明し、由依と咲子が「観察の順番」「光の拡散」「モチーフ台の水平」「介入せず記録」の四点を簡潔に示した。

 先生は壺に近づき、薄和紙の当てを覗き込む。「ひびへの補強は許可。けれど—」と声の温度が一度下がる。「『動かない静物』を「動かないように固定」するのは、授業としては本末転倒だ。偶然と戦うのも練習だ」

 由依がうなずく。「なので、「固定」ではなく「観察の渋滞解消」に絞ります。席を順番制にして、光と時間をそろえる。『見え方の不公平』だけをならす。構図の答えは、残します」

 杉浦先生はしばし沈黙ののち、薄く頷いた。「…よし。『見方の掟』を紙にして掲示だ。『描き方』は指導するが、『見方』は同意が必要だ」

 掲示用の紙を用意した。

 ①観察は三分。席はA→Fの順番で回ります。

 ②同時観察は最大二名まで。

 ③光源・モチーフ位置は触らない(安全補助を除く)。

 ④「見えづらさ」は係へ。受け手側の整備で対応します。

 ⑤「構図を良くする」ための修繕は禁止。

卓哉はマーカーで可愛い林檎のイラストを描きかけ、由依に「最後」と止められる。「はーい、面白さは最後」

 午後の後半、美術室の空気は再び穏やかになった。順番で座った一年たちが、砂時計の音のない音を聞きながら、ただ見て、たまに線を一本引く。その合間に林檎は一度、小さく転がりかけたが、AとBの席が空いた瞬間に止まった。

 「「視線密度」…」

 奈緒子が呟くと、修繕帳の端にまた小さな印字が浮かぶ。

 夕方。片づけの前、裏口から風が抜けて、カーテンが視界の端で揺れた。机の上に、一枚の細長い紙がいつのまにか置かれている。丸い書き癖の短い文だ。

 「詩人また来た」卓哉が肩を竦め、全員の口角が上がった。

 公開報告を作る。

 ・目的:静物画授業における「見え方の不公平」の抑制

 ・手段:観察の順番制/光の拡散/モチーフ台の水平調整(紙噛ませ)/壺ひびの紙繊維補修(内容非介入)

 ・観察:同時視線数と動きの相関/順番制での抑制効果/「構図の偶然」は残存

 ・帳面使用:安全・紙繊維補修のみ。印象操作/構図固定は不使用

 ・監査ログ:生徒会会計・森本確認/美術科・杉浦立会

 杉浦先生は報告に印鑑を押し、「次の課題は『待つ線』だ」と短く言った。

 修繕室に戻ると、黒板の掟に新しい一行が足された。

見え方を整える」」由依が読み上げ、龍平が続ける。「そして、待つ」

 夜。修繕帳のページには、小さな黒丸が二つ揃って押されていた。

 余白に、赤い細字がひとつ。

 誰かの記憶が紙の上で笑い、時間が一瞬だけ巻き戻ったように感じられた。

 最後に、大夢は今日の一行を記す。

 窓の外では、夕焼けが壺の口の楕円に細く映っていた。砂時計の砂は落ち切り、でも、見えるものはまだ落ち切ってはいなかった。各自のイーゼルに戻った一年たちの肩が、同じ速度で上がり下がりする。待つ、という行為の中で、輪郭は自分の手で引き寄せられるのだ。

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