第12話_二人三脚の予選

 グラウンドには白線が引き直され、夏草の匂いが漂っていた。午後の空気はまだ重く、セミの鳴き声が応援の合間に割り込む。体育祭の目玉種目——二人三脚の予選が始まろうとした。出場するのは各クラスから数組。全校生徒の前で走ることになるため、誰もが笑いと声援に包まれる。

 大夢と由依はスタート地点に並んだ。互いの右足と左足を麻の紐で結び、結び目を軽く確かめる。由依が紐を少し引き、目で「大丈夫?」と問いかける。大夢は小さく頷き返した。

 「掛け声はどうする?」

 「「イチ、ニ」でいいよ。テンポは私が出すから」

 「了解。俺は振り遅れない」

 隣では龍平と奈緒子のペアが準備した。奈緒子は意気込んで足を鳴らし、龍平は少しうんざりしたように「落ち着け」と低く返す。その姿が妙にかみ合っていて、見ている咲子と卓哉が吹き出した。

 笛の音が響く。号砲とともにスタート。大夢と由依は最初の一歩に慎重だったが、息が合った。「イチ、ニ、イチ、ニ」。由依の声が大夢の耳に響き、足が自然と揃う。

 最初の直線を抜け、コーナーへ差し掛かる。スピードに乗った二人の身体が傾く。大夢は無意識に由依の肩へ力を入れ、彼女はそれに合わせて重心を外へ流した。砂が跳ね、観客の歓声が高まる。

 「いい、いい! そのまま!」

 咲子の声援が聞こえる。

 だが次の瞬間、前方のペアが転倒した。白線を大きくはみ出し、足がもつれて転がっている。大夢の視界に迫る背中。避けるか、減速か。ほんの一瞬の迷いが、紐で結ばれた足に重くのしかかる。

 「右!」

 由依の声が鋭く飛んだ。大夢は反射的に右足を強く蹴る。結んだ左足が引っ張られ、体勢が大きく崩れる。二人は肩を支え合いながら、転倒したペアをぎりぎりでかわした。

 観客から大きなどよめきが起こる。砂埃が舞い、心臓が速く打ち続ける。二人の呼吸は乱れたが、紐は切れていない。

 「行くよ!」

 「…ああ!」

 再び掛け声を合わせ、ゴールへと駆け抜けた。結果は二着。だが予選突破の条件は三着以内。由依が大きく息を吐き、笑顔を見せた。

 「今の判断、すごかったね」

 「いや、声がなきゃぶつかってた。由依のおかげだ」

 そこへ龍平と奈緒子が戻ってきた。彼らも予選を突破する。奈緒子は笑顔で手を振り、龍平は肩をすくめながらも口元に小さな笑みを浮かべていた。

 咲子と卓哉が駆け寄ってきて、水を差し出す。咲子は得意げに「チームワーク完璧!」と褒め、卓哉は「決勝はもっと荒れるぞ」と冷静に告げる。

 由依は汗をぬぐいながら頷いた。

 「決勝…楽しみだね」

 「おう。今度は「勝ちに行く」」

 大夢の目に、挑む光が宿った。

 午後の空に、蝉の声が一層強く響いていた。

 決勝は、予選の熱をそのまま倍にしたみたいだった。白線は引き直され、スタート地点にはコーンが等間隔で並ぶ。観覧席ではクラスごとの応援うちわが揺れ、部活動ののぼりが風にきしんだ。アナウンスが「安全のため、靴ひもは各自で再確認してくださーい」と呼びかけ、係の一年生が結び直しを手伝っている。

 由依は自分と大夢の足首の結び目を握って、きゅっと締めた。「痛くない?」「平気。テンポはさっきと同じでいく」彼女の声が落ち着いていて、胸の鼓動がそこで目盛りをそろえられる。

 待機列の後方では、龍平と奈緒子が小声でやり取りした。「砂が柔らかい。内側の二レーンは沈む」「靴底、松ヤニで軽く粘らせる?」奈緒子が実験じみた顔でポケットから小袋を覗かせる。龍平が首だけで左右を見て、低く言い切った。「——やめる。「均一化は可、偏らせるは不可」。俺らが勝つために地面をいじったら、掟を壊す」

 「じゃ、均一化を「人力」で」咲子がライン係に声をかけ、コース全体へ薄く新しい石灰を撒いてもらう。「沈み込みのムラ、減るはず。スタート合図は「図書館時計」で同期。笛の位置とジェスチャーの角度、統一お願いしまーす」生徒会の会計・森本が「了解」と挙手し、スターターへ確認の紙を手渡した。検収会で決めた「基準時刻の統一」が、ふつうの体育祭に混ざっていく。

 隣のレーンには、予選で転倒した二人が並んでいた。片方の女子がまだ不安げに紐を触っている。卓哉がひょいと近づき、ガムテープで保護を足してやる。「可愛いほうのテープで」「柄はいらない」即答に笑いが起きる。場が少し柔らかくなる。

 笛が鳴った。最初の二歩は様子見、三歩目で一段上げる。「イチ、ニ、イチ、ニ——」由依の掛け声が、砂の跳ねと同じ周期で大夢の耳を振るわせた。視界の端で、別の組が前に出る。長身の男子がリードし、相方が必死でついていく。肩が上下に揺れるたび、結び目が叩かれているのが見えた。

 最初のコーナー。外に膨らめば距離が増える。内に寄れば砂が深い。由依の声が一音だけ高くなる。「外、浅く」大夢は半歩だけ遅らせ、肩の角度を変えた。結び目が自分の足ではなく、二人の支点であることを体で思い出す。

 二十メートル地点、客席が近くなり、ざわめきが押し寄せる。龍平と奈緒子のペアが沈み、奈緒子の靴が砂に持っていかれた。「落ち着け」「落ち着いてる!」二人は肩でバランスを取り、崩れずに抜けた。彼らの背中は、予選の時よりも「支え合う」姿勢をする。近道は、今日は連れてきていない。

 直線に戻った瞬間、先頭の組の紐が緩んだ。片側がほどけかけ、男子が焦って持ち直す。審判が旗を上げかける。大夢は反射的に視線を落として自分たちの結び目を見た。きれいだ。固い。揺れていない。

 「——右、半歩だけ長く」由依の声が耳のすぐ後ろで響く。大夢は右足で砂を蹴り、その反動で左肩を前に送る。二人の体がひらりと一本の線になって、風の抵抗が薄くなる。歓声の塊が動き、白線がゴールの形に近づく。

 ゴールテープが胸に触れた。二人はほぼ同時に息を吐き、紐に手を伸ばした。結果は一本差の二位。優勝は逃したが、走り切った体の中に、変な空白はなかった。

 「よかった…!」由依が汗に光る頬で笑う。「最後の「右」、ありがとう」「いや、声が先に来てた」大夢は自分の胸の鼓動が、さっきよりもおだやかになっているのに気づく。伸び切ったゴムが、戻るみたいに。

 表彰と解散のあいだ、龍平と奈緒子が水を持って来た。奈緒子は唇を尖らせる。「粘りで負けた。装備で勝つ誘惑、だけあった」「勝たない方法も、勝ち方だからな」龍平の声は涼しい。自分で宣言した線を、ちゃんと守った顔だった。

 離れたベンチに、転倒しかけたペアの女子がひとり腰掛けている。足首にテープの跡。由依は迷わず近づいた。「大丈夫?」「うん。…最後まで走れたから」返事は小さかったが、顔は前を向いていた。修繕帳がなくても、テープ一枚と声で補えることはある。

 夕方。修繕室に戻ると、机の上に今日の「競技観察票」が並んだ。スタート方法の統一、石灰の追加、コース沈み込みのムラ、結び目保護の効果。数字ではないが、次の年の誰かの役に立つ手順が並んでいく。

 「ルールの見直し、入れる?」咲子が黒板の前に立つ。「「競技における支援」の整理」大夢はチョークを握り、短くまとめる。

 由依が読み上げ、卓哉が「「耳の通り道を掃除」と同じだな」と頷く。龍平は「「松ヤニは不可」って注釈、書いとけ」と笑いながら言い、奈緒子は「来年は『結び目講習』を企画」とPCに打ち込んだ。

 そのとき、扉の下から白い封筒がまた滑り込んだ。いつもの丸い癖の文字。

 咲子が読み上げる。「…詩人か」卓哉が肩を竦め、誰かの笑いがこぼれた。心が軽くなる。

 ログの最後に、大夢は今日の一行を足す。

 窓の向こうで、グラウンドの白線がまだ薄い光を返する。夜風が秋に傾き、蝉時雨の合間に、遠い電車の音が重なった。紐の跡が足首に残る。目盛りを合わせた拍の痛みは、消える種類の痛みだ。

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