第9話_消えた予算の端数

 七月末の水曜日、文化祭実行委員会から回ってきた予算台帳の写しを前に、修繕室の机上に鉛筆が並んだ。紙は湿気で波打ち、数字の列が水面のように揺れて見える。

 「三千八百七十二円、合わない」

 咲子が電卓を止め、言った。彼女の指は合計欄と現金残高欄の差を何度も往復し、そのたびに同じ端数が残る。

 「どこで落ちた?」

 大夢が出納ノートのページをめくる。用度係からの軍手、滑り止めマット、ブルーシート、接点復活剤、綿棒、紙テープ。購入日、単価、点数、税。ひとつひとつは小さな数字だが、積むと大きい。

 「この「送料按分」が怪しい」

 龍平が赤鉛筆でノートの端を軽く叩く。「三団体で割ったって書いてるけど、端数処理が団体でバラバラだ。こっちの係は切り捨て、向こうは四捨五入。結果、こちらの負担が三百円多い」

 「でも、それじゃ三八七二円の説明にならない」

 由依が首を振る。卓哉は領収書の束を広げ、番号順に並べ替えながら言う。

 「この「滑り止めマット」、見積時は税別で計算して、購入時は税込に直してる。しかも「学割」がレジで勝手に入ってる」

 「割引、嬉しいけど、台帳に反映しなきゃズレる」

 奈緒子がメモを取りながら、納品書とレシートの印字を目で追う。紙の端に小さく「学内割3%」の文字。

 「それ、積み上げていけば三千円台はいく。でも「八百七十二」までは…」

 咲子がため息を含む息を吐いたとき、扉が叩かれた。生徒会計の森本が、出納印の箱を抱えて立っていた。

 「予算の進捗確認。…悪いけど、端数の不一致が出てる班は、文化祭告知の掲示をいったん保留してる」

 彼女の言い方は冷たくはないが、数字の世界の容赦のなさが混ざる。「明日までに「説明できる形」にして」

 「「直して」じゃなく、「説明して」か」

 卓哉が頭を掻く。森本は頷き、帰り際に一行を置いた。

 「あと、「修繕帳」を会計に使った形跡がないかも確認する。ルールを掲示してるなら、大丈夫だと思うけど」

 扉が閉まる音のあと、修繕室に短い沈黙が落ちた。龍平が口を開く。

 「最悪、「復旧」して穴を塞いでから、後で正す…って選択肢は」

 由依の視線が鋭くなる。「それは粉飾の別名だよ」

 「わかってる。…でも、俺たちが止まると、他の班の段取りが詰まる。三千八百七十二円で、全体の進行が遅れるのは馬鹿らしいだろ」

 「だからこそ、「説明」を作る」

 咲子が言葉を切った。「お金に帳面は使わない。数字の行き先は、人の足で辿る」

 午後、六人は二手に分かれた。大夢と奈緒子は用度係とレジの履歴確認へ、咲子と由依は生徒会計室で「送料按分」のルールを洗い直す。卓哉と龍平は各班の立替精算の写しを回収し、裏書きの不備をチェックする。

 「按分は「総額×使用面積比」で統一、端数は「最後の班が持つ」。ただし「学割」は実際に適用された班で反映」

 由依が紙にルールを走らせ、森本が「それで行こう」と判を押す。

 視聴覚室。大夢はショップの明細を前に、店員から事情を聞いた。

 「電話注文の見積時は税別、学割は当日会計でしか入らないんです。電話口では説明したつもりでしたが…」

 「いえ、こちらの記録が甘かったです。見積書のコピーを「見積・税込/税別」で仕切り直してもらえますか」

 「できます」

 夕方、修繕室に数字が戻ってくる。机上で合流したルールと領収と按分表。

 「合った」

 咲子の声は小さかったが、確信が乗っていた。差額は「学割反映漏れ」と「送料按分の端数処理」で説明がつき、最後に「用度係の仮置き小口二百円」が未処理だったことも判明した。

 「「消えた」んじゃなく、「並んでいなかった」」

 由依が鉛筆で矢印を引く。大夢は胸の底の冷えが溶けるのを感じた。

 「俺のさっきの提案は、線を踏みかけた」

 龍平が自分で言った。逃げ道を作らない声だ。「「影の補修」って役割、俺がやるのは裏口じゃなくて、段取りの影だって、わかってる」

 「だから、ここに書こう」

 大夢は黒板に向かい、チョークを置く。

「遅れそうでも、歩いて追う」」

 咲子が読み上げ、卓哉が「了解」と指を鳴らす。奈緒子は「計算手順のテンプレ、私が作る」とPCを開いた。

 「公開報告」は一枚にまとまった。目的/不一致の事実/原因内訳/是正手順/今後の運用。末尾に「修繕帳は使用していません」の文言。森本に提出すると、彼女は頷き、赤い印を押した。

 「掲示可。告知、進めて」

 廊下に出ると、夕立ちの残り香がした。窓から差す光が、台帳の紙に薄い帯を作る。大夢はページの端を撫で、最後の一行を足した。

 その右に、細い文字が滲む。

 昼休み、生徒会の掲示板に「按分ルール」の紙が貼られた。数字の行がまっすぐ伸び、端数の行き先が矢印で示されている。眺めていた一年が小さく呟く。

 「こういうの、最初から欲しかった」

 由依は隣で笑った。「だから、最初から作る」

 放課後。机の上の台帳は、もう湿っていなかった。紙の波は、数字の線に吸い取られて、まっ乾いていた。

 扉の外で、足音が止まる。ノック。手短な紙が差し込まれる。

 次の紙の行先は、もう決まっている。六人は顔を見合わせ、息を合わせた。数字の次は、言葉だ。

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