第6話_図書館の貸出エラー

 七月半ば。期末テストも近づき、校舎の図書館はいつになく混み合っていた。参考書や問題集を探す生徒が行列をなし、カウンターの司書も慌ただしく本を処理する。

 「はい、次の人どうぞ」

 由依が前に進み、借りたい本を差し出した瞬間、バーコードリーダーの音が途切れた。画面に赤いエラー文字が浮かぶ。

 「え? これ、この前まで普通に借りられたはずなんだけど…」

 由依は眉をひそめる。司書は困ったように首をかしげ、後ろに並ぶ生徒たちがざわつき始めた。

 その場に居合わせた奈緒子が、目を輝かせて声を上げた。

 「これは実験のチャンスだよ!」

 「いや、実験じゃなくてトラブルだろ」

 卓哉が呆れ声を上げるが、奈緒子はすでに本の背表紙を撫でながら、修繕帳を取り出した。

 「「貸出エラーを修繕」って書いたらどうなると思う?」

 「待って!」

 由依が慌てて止める。周囲にはまだ生徒がいて、好奇の視線が集まっている。

 結局その場は司書が「システムエラーですね、あとで確認します」と処理し、貸出は見送りになった。由依は不完全燃焼のまま修繕室に戻り、六人で集まって議論を始めた。

 「帳面を使うのは簡単だけど、図書館のシステムに「見えない書き換え」が起きたら危険だ」

 咲子が冷静に言う。

 「でも、原因を調べないと利用者が困る。時間もかかる」

 奈緒子はわくわくした目で反論する。

 大夢は机を指で叩きながら言った。

 「じゃあ二段階でやろう。まずは「現象の再現」を狙う。次に「記録を残す」。」

 ルールを再確認しながら、六人は深夜の図書館に忍び込む計画を立てた。正式な許可を得た上で。司書に説明すると、「原因究明になるなら」と条件付きで承諾を得られた。

 その夜、閉館後の静かな図書館。外の雨音が遠くで響く中、パソコンのランプだけが光っている。奈緒子は修繕帳に素早く書いた。

 紙片をスキャナー横に貼りつけた瞬間、画面は一度ブラックアウトし、再起動した。だが、再びエラーが表示される。しかも今度は別の本でも同じ現象が起きた。

 「うわ、範囲が広がった!」

 奈緒子が声を上げる。由依が紙片を剥がし、ログを取る。

 「差し戻しが来るかも…」

 咲子が険しい声を出した。

 翌朝、修繕帳のページには真っ赤な印字が残っていた。

 大夢は頭を抱えた。

 「…「便利さのためだけ」に使ったら跳ね返される」

 奈緒子は唇を噛みながら、笑った。

 「でも、わかったよ。無断で触れば不具合が拡大する。だから、これからは「必ずログを残す」。ルールに加えよう」

 黒板にチョークで新たに刻まれる。

 図書館の静けさに、またひとつ掟が積み重なった。

 翌朝の図書館は、梅雨の湿気と紙の匂いでむんとするほど満ちていた。開館と同時に行列が伸び、カウンターでは司書の倉本先生が「次のひと」と声をかけ続けている。だが、バーコードリーダーの乾いた「ピッ」という音は、ときどき途切れ、画面に赤い帯が走った。

 由依は昨夜の差し戻し印の像を胸の奥に残したまま列の端を見回し、六人に視線を送った。大夢は小さくうなずき、用度係から借りてきた黄色いビニールロープで「待機ライン」を引く。混乱を先に減らす。卓哉は「返却カゴ→待機棚→再スキャン」の動線を床に紙テープで描き、咲子は司書台の脇に「一時手書き貸出票」を置いた。

 「倉本先生、検証の許可、ありがとうございます」

 咲子が最小限の言葉で礼を述べ、由依はヒアリングを始める。

 「不一致が出るのは、どんな本ですか?」

 「寄贈のシールが貼ってあるものが多いかもね。去年の秋以降に増えた棚に偏ってる気がする」

 「時間帯や端末は?」

 「この一番手前の端末で起きやすい。午後は少し減るけれど、ゼロじゃない」

 奈緒子は検証対象の本を三十冊、ラベルの種類が偏らないように無作為抽出した。背表紙、奥付、蔵書印、そしてバーコードの貼付位置を写真に収め、スプレッドシートに打ち込む。龍平はカウンター裏の配線を見て、コンセントタップの緩みを締め直した。

 「まず「現象の再現」。次に「原因の分解」。帳面は後ろ」

 大夢は修繕帳を閉じたまま、手順を口で確かめる。昨夜の無断修繕が範囲を広げた事実が、背中を冷たくする。

 検証を始めて十分。法規の棚から持ってきた一冊で、由依の手元のリーダーが短く鳴ったあと、赤帯が出た。

 「来た。…「登録情報に不一致」」

 奈緒子が本を上下に傾け、背のラベルを光に透かす。

 「バーコードが…二枚重なってる?」

 薄く黄ばんだ旧ラベルの上に、新しいラベルが斜めに貼られていた。さらに、裏表紙の折り返しにも小さな管理用バーコードがひとつ。スキャナの光が角度によって二枚を拾い、IDがぶつかるのだ。

 「寄贈の時に「仮ラベル→本ラベル」と貼り替えたんでしょうね。忙しい時期だったから」

 倉本先生が苦笑する。

 「「見える」重複なら、物理で解く」

 由依がうなずき、咲子が「暫定手順」を素早く清書する。

 ①該当本を「待機棚」へ。②旧ラベルの露出有無を確認。③旧ラベルはアーカイブ用紙に貼り替えて書誌IDを記録。④新ラベルの位置を規定位置へ貼り直し。⑤スキャン検証。⑥検収用の「観察票」を添付。

 「帳面は?」

 卓哉が問うと、大夢は首を横に振った。

 「いまは使わない。これは「棚卸しと整備」の領域だ。人の手で戻せるなら、人の手で」

 作業を始めると、別の不一致の原因も見えてきた。寄贈本の一部は奥付の発行年が古く、図書館システムの書誌DBに「版違い」として登録されていたのだ。レコード上は第二版、現物は初版。IDが近いせいで、人の入力で取り違えが起きている。

 「「版の一致」を見落とすと、貸出時に不一致が出る」

 奈緒子がチェックボックスに「初版/二版」の欄を足し、由依が「背の色帯」「表紙の帯有無」など、誰が見ても判別できる物理特徴を追加する。

 午前の二時間で、対象は二十八冊。旧ラベルの剥離、版の取り違え、貼り位置の不統一。原因は「人の手」だが、だからこそ「人の手」で帰れる。龍平は「待機棚」に鍵をかけ、カウンター前の列に「貸出に時間がかかる本があります」の紙を掲げて人の矢を鈍らせた。

 昼休み。六人は修繕室に戻り、掟の掲示を見直した。

 「昨日、勢いで「ルール⑧:全件ログ化」って書いちゃったけど…番号、空いてるのは②だよね」

 卓哉が冗談めかして指摘すると、咲子が頷く。

 「ナンバリングの欠番は混乱のもと。正式に繰り上げよう」

 黒板の「⑧」を二本線で消し、「②」に書き換えた。脇に小さく注記を添える。

 紙の上の整頓は、心の上の整頓でもある。

 午後は「版違い」の照合に移った。由依が生徒ボランティアを三人募り、「初版と二版の見分け方メモ」を渡して棚差しを進める。大夢は「観察票」のフォーマットをA6サイズに落とし込み、各冊に添付。奈緒子は端末側の設定を倉本先生と確認し、「スキャン時の「複数バーコード検出」をオフ」にした。龍平は配線の経路を短くし、リーダーの台座の位置を変えて読み取り角度を安定化させる。卓哉は待機列に「いまの平均待ち時間:8分」と札を下げ、空気を柔らかくした。

 「よし、検収に出す前に一本だけ、帳面で「安全網」を敷く」

 大夢は修繕帳を開き、言葉を噛んで選ぶ。

 紙片は端末の台座の底面へ。物理で整えた上に、あくまで「拡大防止」の薄い膜を敷く。昨夜のように、状態をごっそり書き換えるのではない。

 夕方。検証済みの本を再びスキャンする。「ピッ」。緑のランプが素直に点いた。二冊目、三冊目。赤帯は出ない。由依が息を詰めて見守る中、寄贈棚の最後の一冊まで通った。

 「通った…!」

 卓哉が頭上でハイタッチの手を上げ、奈緒子が観察票に「良好」を丸で囲む。咲子は「公開報告」をプリントし、掲示板の「図書館のお知らせ」に差し込んだ。

 片づけが終わるころ、由依は昨日借り損ねた参考書を手にカウンターへ差し出した。

 「お願いします」

 「はい、どうぞ」

 今度は滑らかな音が鳴り、貸出票がするりと吐き出された。倉本先生が小さくガッツポーズを作る。

 「ありがとう。説明がある修繕は、安心するわ」

 「「見える」って、大事ですね」

 由依は笑って本を抱えた。胸のざわつきはもうない。

 さらに、端の余白に小さな文字があった。

 誰の手かはわからない。けれど、紙の上で「よかった」と誰かが頷いているのを想像できた。

 放課後、六人は掲示の下に短い一行を足した。

 そして、その隣に大夢がチョークで書く。

 由依は頬を赤くして、「じゃあ、私は「足場の案内板」を書く」とマジックを握った。

 卓哉は「並び順はこちら→」の矢印を可愛く描き、奈緒子は観察票の紙をもう少し丈夫な紙に差し替え、咲子は「閉館後の整備時間割」を司書と決め、龍平は待機棚の鍵を点検して黙って戻した。

 夕方、図書館の窓から落ちる光が、整った背表紙の列を撫でていた。昨日まで赤帯に塞がれていた道が、普通の「ピッ」という音で、まっすぐ前へ伸びていく。

 紙と人と、少しの魔法。その順番さえ間違えなければ、校内の「不具合」はちゃんと「生活」へ戻っていく。

 大夢はページを閉じ、指先についた古い糊を拭った。小さなベタつきが、なぜか誇らしかった。

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