第5話_剣道場の床鳴り
七月に入り、蒸し暑さが校舎全体にまとわりつくころ。放課後の剣道場では、竹刀の音と掛け声が入り混じり、板張りの床を響かせていた。だが、その音の中に、異質な軋みが混じっていることに、大夢は気づいた。
「今の、聞こえた?」
試合を見学していた由依に声をかける。
「うん。踏み込むたびに「ギィ」って…。あの一枚、緩んでる」
剣道部の三年生が踏み込むたび、床の中央付近で鳴る不規則な音。試合に集中したい部員たちの表情は硬い。顧問の先生も気づいているが、「業者に依頼してからだ」と腕を組むだけだ。
「でも、このままじゃ試合に支障が出る」
剣道部の二年生が不安そうに漏らす声を聞き、由依は大夢と目を合わせた。これは「全員が困っている案件」に違いない。
その晩、修繕室に六人が集まった。卓哉は竹刀を借りてきて、床の鳴る部分を再現しながら「ここ、微妙に段差あるんだよな」と説明する。奈緒子が床材の構造図を調べ、咲子が「業者手配までに仮止めで持たせるのは可能」と判断を下した。
「帳面を使うか?」
大夢が問うと、龍平は少し笑みを浮かべた。
「試合で「勝つため」に床を都合よく直すのはアウトだ。でも「怪我を防ぐため」ならセーフだろ」
その線引きが、場を少しざわつかせた。便利さとズルの境界は、いつだって薄い。由依が口を開く。
「じゃあ、「勝つため」じゃなくて、「安全のため」に限定する。記録を残して、明日には必ず報告する」
意見がまとまると、大夢は修繕帳に書き込んだ。
紙片を床のきしみ部分に貼る。次の瞬間、床はぴたりと沈黙した。竹刀で軽く叩いても、あの不快な軋み音はもう響かない。
翌日の部活で、剣道部の部員たちは驚きつつも安堵の表情を見せた。だが、その中で一人だけ、複雑な顔をした者がいた。床の軋みがなくなったことで、試合の勝敗が微妙に変わったと感じているらしい。
「修繕って…本当に誰のためなんだろうな」
帰り道、龍平が小さくつぶやいた。
翌日。放課後の剣道場は、湿気で重い空気の中に竹刀の鋭い風切り音が走っていた。昨日の「仮補修」で軋みは止まり、掛け声に無駄なざわつきが混じらない。三年の主将が打ち込みを終え、面を外してこちらへ来た。
「助かった。怪我の心配が減った。…ただな、中心の踏み込みが前より「伸びる」気がするって声もある」
具体を求める目だった。大夢は正面からうなずく。
「安全目的の補修です。記録と手順、出します。試合に影響が出るなら、範囲の再調整をします」
ひとまず透明な合意を置き、六人は修繕室へ戻って短いミーティングを開いた。卓哉が体育館用メジャーと水平器、テープを机に置く。
「「どこがどう変わったか」を測って見える化しよう。俺、ライン引く」
奈緒子はノートPCで床材の構造図を再確認し、「反発を均一化するなら「面で当てる」補助材が要る」とつぶやく。咲子は「顧問・主将へ「公開報告」のフォーマット」を用意し、由依は短く言った。
「公平に。局所的な「有利」は作らない」
そのとき、龍平が椅子の背にもたれながら、何気ない声で言った。
「「勝つ」ための微調整、って線は…どこまでがアウトだ? たとえば、相手校が苦手とする「中心の間合い」に合わせて、反発を落とす。安全は保ったまま、流れを変える。…そういう「小さなズル」」
空気が揺れた。言葉は静かだが、的確すぎて、心のど真ん中に当たる。
由依が即座に首を横に振る。
「それは「努力の代替」の別名だよ。私たちが勝ち負けを動かした瞬間、部の汗を奪う」
「でも現実には、床の癖もホームの利も、多少はある」
「「偶然の偏り」と「人為の介入」は違う。私たちが選ぶのは後者じゃない」
大夢は黙って二人の間を見た。龍平の提案は、現実的だ。試合は一瞬の差で決まる。けれど、ここで踏み込めば、戻れない気がした。胸の奥で針が振れる。工具箱を閉じ、言葉を選ばないで言う。
「「安全のため」だけにする。競技の公正に触る修繕は、やらない」
結論を紙に落とす。—ルール⑥「競技の公正を毀損する修繕は禁止。安全目的に限定」。咲子が文言を整え、掲示に差し込んだ。
検証は夕方から始めた。床に50センチ間隔でテープを打ち、四隅と中央に同じ高さから重りを落として反発のばらつきを測る。奈緒子がスマホのスローモーションで落下と跳ね返りのフレーム数を数え、「中央が高反発、±3%」と読み上げた。
「「均一化」で「公平」にする?」
由依の提案に、大夢はうなずく。修繕帳を開き、慎重に言葉を選んで書いた。
紙片を床板の端に貼る。目に見える変化はない。だが、重りを落とすと、跳ね方の差は誤差に収まった。卓哉がテープを剥がし、「これで「どっちにとっても」同じ舞台だ」と笑う。
夜、主将と顧問へ「公開報告」を出した。目的・手順・記録・検収予定・「勝敗への干渉は行っていない」の一文。顧問は目を通し、「明日、全員の前で読み上げる」。
翌朝。修繕帳のページに、印字が二つ増えた。
小さな注記の※が、紙の上で赤く灯っているように見えた。
その日の放課後、練習試合。相手校は速い面が持ち味で、こちらは体幹と粘りで対抗するスタイル。均した床は、打つ側にも受ける側にも等しく反応する。一本の取り合いは拮抗し、最後は主将の面が早く入った。歓声と面金の擦れる音。勝負は、稽古の本数と判断の速さで決まった。
片づけのあと、龍平が大夢の隣で水を飲みながら、言う。
「俺、昨日言ったこと、まだ「やろう」と思ってるわけじゃない。ただ、勝ちたい気持ちって、必ず「近道」を連れてくる。俺は、そこに気づく役でいる」
「気づいたら、言ってくれ。ブレーキを踏めるのは、気づいたやつだけだ」
「踏みすぎたら、押せよ。背中から」
短く笑って、彼は道具袋を肩に掛けた。背の向きは、いつだって誰かの後ろだ。
夜、修繕室に六人が集まり、掟の紙の下へ一行を足す。
由依が読み上げ、咲子が「対外への説明に「均一化の写真・動画」を添付」を追加し、奈緒子は「反発測定の手順書」を清書した。卓哉は「公開報告」の控えをファイルに綴じ、龍平は貼り替えた掲示の角を撫でて気泡を抜いた。
帰り支度の最中、封筒が一つ、修繕室の扉の隙間から滑り込んだ。開くと、短い置き手紙。
差出人不明。軽い紙が、重かった。七年前からの影が、また輪郭を増す。
「…見られて困ることは、しない。見られて困るやり方も、しない」
大夢は小さく言い、由依が頷く。「だから、並べておく。目的と手順と、線引きを」
剣道場の鍵が、夜の校舎で小さく鳴る。今日のログの最後に、大夢は一本の線を書き足した。
ページを閉じる手の甲に、昨日の反発測定でついた薄い粉が残っていた。指先で拭うと、白い粉は消えたが、線引きの感触だけは消えずに残った。
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