第4話_掲示板の落書き、誰が消した?

 六月のある朝、校舎中央の昇降口に設置された掲示板が、生徒たちのざわめきで埋め尽くされていた。進路指導の資料が貼られているはずの場所に、黒いマジックで大きく走り書きされた文字があったのだ。

 名指しされた三年生の名前は、部活動でも真面目で知られる先輩のものだった。生徒たちの間で「誰が書いたのか」「本当なのか」と憶測が飛び交い、昇降口は朝から重たい空気に包まれていた。

 「これは、やばいな…」

 大夢が眉をしかめ、由依も険しい顔をする。

 「名誉を傷つける落書きなんて、放っておけない」

 奈緒子が「じゃあ、修繕帳で消せばいい」と口にした。

 だが、龍平は首を横に振った。

 「ただ消すだけじゃ、犯人探しが加速する。『勝手に消された』って証拠が残るからな」

 確かに、その場しのぎで落書きを消せば、余計に疑いが膨らむ可能性があった。

 「じゃあ、どうする?」

 卓哉が腕を組み、咲子はノートを開いて冷静に状況を整理する。

 「掲示板を修繕する目的は「名誉の回復」。でも、「誰が消したか」の説明責任も必要。第三案を作らないと」

 六人は昇降口から少し離れた空き教室に集まり、短い会議を始めた。

 「落書きを消す行為が「隠蔽」と見られるのは避けたい」

 咲子が最初に口火を切る。

 「じゃあ、掲示板全体を「公式に清掃した」形にするのはどう?」と由依。

 「なるほど。「誰かの名誉を守る」という目的を前面に出せばいいんだ」大夢がうなずく。

 卓哉は「だったら落書きだけじゃなくて、掲示板のガラスもピカピカに磨けば、誰も文句言えないな」と笑った。奈緒子が「実験用のアルコールスプレーを借りられる」と補足し、龍平は「俺は、事前に生徒会に「清掃許可」を取りに行く」と動いた。

 準備が整うと、六人は放課後に掲示板前へ。龍平が生徒会から借りてきた「清掃許可証」を掲示し、咲子が記録用紙を掲げる。大夢が修繕帳に記す。

 紙片を落書きの上に貼り、奈緒子がアルコールで拭く。すると、インクがするすると溶け、紙片ごと剥がれ落ちていった。下からは、進路資料のきれいな文字が現れる。

 「おお…」

 卓哉が声を上げた。掲示板は新品のように透き通り、落書きの痕跡はどこにも残っていない。

 作業の様子は咲子がスマホで撮影し、「清掃報告」として生徒会へ提出。翌朝には掲示板横に「放課後リペアログによる清掃完了」と書かれた小さな張り紙が貼られていた。

 その日の昼休み、名指しされた先輩が修繕室を訪ねてきた。

 「…ありがとう。あれ、見たとき正直、心が折れそうだった。でも、消されたことより、「みんなの前で説明された」ことのほうが救いになった」

 大夢は「俺たちはただ、できることをしただけです」と返した。だが心の奥では、便利さよりも「説明責任」が人を守るのだと実感した。

 清掃から一夜明けた昇降口は、朝の光をよく通した。磨かれたガラスの向こうで進路資料の文字がくっきり読める。昨日の黒い線は跡形もない。だが、人のざわめきはまだ残っていた。

 「誰が消したんだってさ」「証拠隠しだろ」「でも、許可証出てたよね」

 断片的な声が、靴箱の金属音に紛れて漂う。落書きは消えたが、感情は残っている。由依は、視線の矢が目に見えるみたいだと思った。

 「「消す」と「隠す」は違うって、どうやって伝える?」

 修繕室に戻ると、咲子が問う。手帳の端に付箋が増え、丁寧な字で矢印が何本も引かれていた。

 「第三案、出そう」

 由依は即答した。「二択は煽る。「放置」か「犯人探し」かじゃなくて、「清掃+説明+相談先」。三つで風向きを変える」

 六人は短い段取り会議を開いた。目的は「名誉の回復」と「再発防止」。手段は「公開手順の掲示」と「匿名相談箱」。窓口は「生徒会・生活指導」。誰が、いつ、どこに、何を——5W1Hで紙に落とすほど、言葉が澄む。

 「掲示文、俺が書く」

 大夢はチョークを握り、黒板へ向かった。

 由依が言葉を整え、咲子が「相談窓口:生徒会・生活指導(昼休み)」と具体を足す。卓哉は「談話スペース」の名目でエントランス横に小さな丸椅子を三脚並べ、花の模様のガムテープで床に円を描いた。「ここに座ったら「人の悪口は言わない」ゾーンな」

 午後、掲示板の横にその紙が貼られた。下部には昨日と同じく「清掃報告」のQR——ではなく、紙の差し込み記録が差された。奈緒子が「紙は紙で完結」を合言葉に見た目を整え、龍平はさりげなく人の流れを誘導する位置に立った。

 放課後、名指しされた先輩が再び来室した。今日は同じクラスの友人を連れている。先輩は一礼して言った。

 「相談窓口で、事情を話してきた。実は部の中で意見が割れてて…俺が「裏切った」んじゃなくて、話し合いが足りなかった。今日の掲示、助かった。俺の感情は、談話スペースでだいぶ整った」

 苦笑いに、救われたような呼吸が混じる。由依は頷いた。「「事実」と「感情」を分けて並べると、見えるものが増えますよね」

 そのやり取りの最中、昇降口の掲示板に新しい紙が一枚貼られた。小さな、震えた文字。

 名前はない。理由は短く、「置いていかれたくなかった」とだけ。

 空気が揺れた。犯人探しの矢は、今度こそ向きを失う。咲子は紙をはがさない。その横に、用意していた封筒を貼った。

 封筒は夕方には重みをもった。短い謝罪、言い訳、しおれた勇気。紙が紙を呼ぶ。文字が、熱を落とす。

 翌朝、修繕帳の昨日の行に印字が増えた。

 赤い小丸が脇に二つ並ぶ。「継続要」が、紙の上でいつまでも点滅しているように見えた。

 「「ケア」、どう続ける?」

 大夢が呟くと、由依が「談話スペースの時間割を作ろ」と即答。咲子は生活指導の先生と日程を擦り合わせ、卓哉は椅子にカバーを縫い付けて座り心地をよくし、奈緒子は「沈黙が続いたら質問カードを引く」仕掛けを考えた。龍平は、名指しされた先輩の部室に差し入れの麦茶を置いて、誰にも見られないうちに去った。

 昼休み、談話スペースに三人が腰掛けていた。三年の先輩と、書いたかもしれない誰かと、由依。由依は質問カードを一枚引く。

 「「今、言わないでいることは何ですか?」」

 沈黙のあと、先輩が言う。「「こちらが」折れるのが負け、だと思ってた」

 相手は、息をひとつ吐いた。「わたし、置いていかれるのが怖いのに、置いていかれるようなことをした」

 由依はうなずき、「それ、二人とも「事実」じゃなく「感情」ですね。どっちも正しい。事実のほうは、どう並べ直す?」と促す。二人は少しずつことばを置き換え、紙の上に矢印を描く。攻撃の記号が、合意の記号に変わるのを、目で見た。

 放課後、六人は掟の紙の下に新しい一行を加えた。

どちらも必要だけど、順番を間違えない」

 咲子が読み上げ、奈緒子が「観察欄に「感情:落ち着き」って項目を足してもいいかも」と笑う。卓哉は丸椅子の円を少し広げ、「三脚じゃ狭い。四脚にするか」と動線を測り、龍平は「匿名箱は一週間で閉じる」と期限を決めた。

 その夜、昇降口の掲示板の前で、誰かが一人立ち止まっていた。小さな封筒にまた一枚、紙が吸い込まれる。誰かの「ごめん」と誰かの「ありがとう」が、直接ぶつからないで済む距離を保ったまま、確かに交差する。

 帰り道、雨は上がっていた。校舎のガラスは薄い夕焼けを映し、通学路の水たまりは空を抱いた。大夢はポケットから修繕帳の小片を取り出して、今日の最後の一行を書き込む。

 ページを閉じる手の横で、由依が小さく笑う。「じゃあ、私の役目は「並べ替えの第三案」ね」

 「頼りにしてる」

 さらりと出た言葉に、自分で少し驚く。胸の内側のざわめきは、もう落書きではない。紙に書けない種類の内緒話を、胸の中だけに貼っておこうと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る