第3話_雨漏りと内緒話
六月のはじめ、梅雨前線が北上するにつれて、桜丘高校の空も重く垂れ込めた。放課後の旧校舎はしとしとと雨に包まれ、窓ガラスを叩く水滴が、誰かの心拍のように一定のリズムを刻んでいる。
「…また、屋上から漏れてるな」
修繕室で工具箱を点検していた大夢は、雨の音に混じって、天井から落ちる規則的な滴の音を拾った。金属バケツに当たる水音が、ぽちゃん、ぽちゃんと反響する。
「この前も掃除の先生が困ってたわね。理科準備室の天井にシミが広がってるって」
由依が言葉を添える。髪の先が少し湿っていて、さっき窓を閉めに回ってきたのだろう。
「ルールに照らせば、これは「全員が困ってる」案件だ」
卓哉が大げさにメモをめくる仕草をし、咲子が冷静に補足した。
「安全面でも放置できない。廊下まで染みてきたら滑って危険だし」
六人は自然に顔を見合わせ、屋上へ向かった。旧校舎の階段は雨でしっとりと匂いを含み、窓から吹き込む風が制服を冷たく撫でる。屋上の扉を押し開けると、灰色の空が一面に広がり、床には小さな水たまりがいくつもできていた。
「ここか…」
奈緒子がしゃがみ込み、水が細い筋となって排水溝へ流れていくのを追う。鉄製の柵の下、シートの継ぎ目に裂け目が見えた。そこから雨が染み込み、下の階へと滴り落ちている。
「小規模な補修なら、帳面を使える」
大夢は息を整え、鉛筆を走らせる。
紙片を切り取り、裂け目の上に貼る。すると、水の筋がじわりと止まり、裂け目は透明な膜で覆われたように塞がった。滴の音が止まり、風と雨の音だけが残る。
「やったな」
卓哉が指を鳴らす。奈緒子が手で雨を受けて確認する。「漏れてない。効果はちゃんと出てる」
その瞬間、雨脚が強まり、風が傘を揺らした。咲子が急いでメモを広げ、記録を走り書きする。
「検収がどう出るかは明日ね。仮の補修だから、長期は望めない」
作業を終えた一行は、屋上の隅でしばし雨を眺めた。灰色の雲の下で、校舎のグラウンドは水鏡のように輝き、部活を終えて帰る生徒たちの影が反射した。
「…静かだな」
大夢が言う。雨音に紛れて、誰にも届かない声だった。
そのとき、不意に由依が口を開いた。
「ねえ、大夢。昨日のルール追加、私がきっかけだったけど…本当はどう思ってる?」
大夢は目を瞬いた。雨の匂いに混じって、心臓が少し早く打つ。
「「努力の代替は禁止」ってやつか?」
「うん。私は、あの夜ノートに頼ったことを後悔してる。でも…大夢は、どう?」
彼女の問いは真剣で、同時に自分を責める響きがあった。大夢は少し笑って肩をすくめた。
「俺はな、失敗をログに残すのが好きなんだ。昨日みたいに失敗して、それを掟に変える。そういう積み重ねなら、悪くないって思ってる」
由依は黙っていたが、雨越しに微笑んだ。
「…そういうふうに言えるの、大夢らしいね」
その声に、大夢の胸は温かく満たされた。雨音と重なる心拍を、誰にも聞かれないように押し隠す。
屋上の補修作業は、実務以上に大切なものを残した。誰かの弱さを責めるのではなく、失敗を次へ繋ぐ。そういう在り方が、六人の輪を少しずつ強めていくのだと気づかせてくれた。
雨脚がいったん弱まったと思った矢先、屋上の東側で別の滴り音がした。排水溝から二メートルほど離れた継ぎ目に、細い筋が新たに現れている。さっき塞いだ裂け目ではない。水は通りやすい道を学ぶ。
「流路が変わっただけかも。枯れ葉、溜まってる」
奈緒子が排水口のグレーチングを指で弾き、金属音を立てた。格子の下には、去年の銀杏の葉と土埃が層を作っている。
「まずは詰まり取りだな」
大夢はしゃがみ、軍手をはめた手で葉を掬い上げる。雨水が一気に吸い込まれ、溜まりがうそのように引いていく。由依は横でスマホに時刻と手順を記録し、作業の写真を撮る。
「帳面の補修は「仮」。現場合わせは「本番」。—今日のログ、こう書いておく」
咲子が濡れないようにノートを胸に抱え、短い文を整理した。理由、手段、観察、次の手。記録の筋が立つほど、気持ちが落ち着く。
その瞬間、突風が吹き込んだ。西の空から黒い帯が走り、空気ごと雨が押され、屋上が一枚の水面になっていく。卓哉が慌ててブルーシートを取り出した。
「舞台装置室から、借り先行で!」
「いつの間に」
「さっき用度係に「雨対策の応急」って言ったら、いいよって。丈夫なブチルのテープも。返却条件は「写真付き報告」」
さらりと言うが、彼の「面白さ」の背後には段取りの速さがある。大夢がシートの角を押さえ、龍平が柵に結束バンドで仮固定する。奈緒子がブチルテープの裏紙を歯で器用に剥がし、継ぎ目を一気に押さえた。
風向きが変わり、雨が横殴りに移った。全員が一歩退いたとき、由依の傘が裏返るようにひっくり返り、骨が一つ外れた。
「あ」
迷う間はなかった。大夢は自分の傘を由依の頭上に差し入れる。二人分には狭い。肩が触れ、濡れた制服の生地越しに、雨の冷たさと体温が混じった。
「ごめん、助かる」
「いい。…記録、続けて」
言いながら、言葉の端が震えるのを自分で誤魔化した。雨の匂いにまぎれて、心臓の音が大きい。由依の髪先から落ちる水滴が、手の甲に一滴だけ落ちた。小さな冷たさが、遅れて熱を呼ぶ。
「ねえ、大夢」
傘の内側、近すぎる声が届く。雨音に包まれて、世界が半径四十センチになったみたいだ。
「なんで「直す」の、そんなに好きなの?」
真正面から来た問いに、返事を選ぶ時間が伸びた。正解なんてない。けれど、回り道をしないと決めた掟を、自分にも適用する。
「俺、失くしたくないんだ。壊れたときに、誰かのせいにする前に「触ってみる」っていう、あの感じ。手の届く範囲が増えると、世界が近づく。…それが、好きだ」
「ふーん」
由依は短く笑って、傘の先を右に傾ける。風を読んだ角度。彼女の「第三案」は、いつだって実装が早い。
「じゃあ、これはどう? 「直さない勇気」は、好き?」
「…今は、まだ怖い」
正直に言った。胸の奥で言葉が鳴り、雨の音にさらわれていく。怖い、のあとに続く言葉—「でも、覚えたい」—は、声にならなかった。
補修の合間、用務員の斎木さんが屋上の扉から顔を出した。青いカッパの肩に雨が弾ける。
「お前ら、ここで何してる?」
「屋上の仮補修です。記録、許可、あります」
咲子が掲示した用紙を差し出すと、斎木さんは意外そうに目を細めた。
「…へえ。紙も道具も、手順もあるのか。なら、排水枡の西側も見とけ。去年そこが抜けて、天井に斑点が出た」
「ありがとうございます」
龍平が会釈し、誰より先に西側へ回った。影の位置取りは、彼の気遣いそのものだ。
西側の枡は、やはり半分泥で埋まっていた。卓哉がシートの余りで簡易の土留めを作り、大夢と奈緒子で泥を掬い、由依が写真を押さえる。咲子は「次回、専門業者の点検提案」とメモに書いた。帳面にだけ頼らない持続の線が、紙の上に一本引かれていく。
作業を終えて階段を下りるころ、雨は小降りになっていた。理科準備室の天井からは、もう滴の音がしない。バケツの水面は静かで、薄い蛍光灯の光を揺らぎなく返す。
「検収が通れば、明日の朝に「観察」がつく」
由依が言い、大夢はうなずいた。視界のどこを切り取っても、濡れた匂いと、ひっそりとした達成感があった。
片づけの最中、卓哉がふいに大夢の肩を肘でつついた。
「さっきの「相合傘ログ」、どこに残す?」
「残さない」
即答すると、卓哉は声を殺して笑った。「じゃあ、俺の胸にだけアーカイブしておく」
「勝手にしろ。でも写真は消せ」
「そんなの撮ってないって。…撮ってないってば」
言いながら目を逸らすので、由依に軽く頭をはたかれていた。
夕方、修繕室でログをまとめる。今日の「雨漏り対応」は、帳面での仮封止と手作業での排水回復、資材の一時借用、対外説明の四項目に分けて整理した。最後に大夢がチョークで掟の隣に短い行を足す。
「言い換えると、「手で触れる→直る可能性を試す→駄目なら帳面」」
咲子が音読する。奈緒子は満足そうに頷き、龍平は「それがいちばん揉めない」とだけ言った。卓哉はシートとテープの返却予定をメモに書き、用度係の棚に返しに走る。彼の背中は、こういうとき目立たないが一番頼りになる。
夜、風が落ち着いた校舎に、湿った静けさが降りた。窓の外で雨粒がときどき弾け、遠くで道路を走る車の音が薄く響く。大夢は机に肘をつき、今日の最後の一行を書く。
由依は横で笑って、「じゃあ、私は「心の入り口」は勝手に触らない」と小さく付け加えた。その言葉が、不意に胸に刺さる。触れてほしい、と思ってしまった自分に驚き、慌ててページを閉じる。
「掲示用の注意書き、作ってくる」
由依が走り、咲子は「掲示場所:理科準備室前・屋上入口」と記し、奈緒子はモップと滑り止めマットを抱えた。大夢は傘立ての前で一瞬だけ立ち止まる。昨日の相合傘は、どこにも記録されていない。だけど、確かに「あった」。
手の届く範囲は、まだ小さい。だからこそ、触れたものの感触を忘れないように、今日もログを綴る。雨は上がった。雲の切れ目から差した光が、旧校舎の廊下に細い帯を作った。
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