第2話_テスト前夜のえんぴつ騒動
中間テスト前夜、桜丘高校の廊下はふだんよりも早く静まり返っていた。教室の灯りは次々と落とされ、帰宅する生徒の足音だけがカツカツと響いている。そんな中で、由依はひとり、教室の窓際に立っていた。
「…忘れた」
机の上に広げたノートは、数式の途中で止まっている。肝心の社会科のまとめノートを家に置いてきてしまったのだ。試験範囲の要点を書き写した友人のノートを、明日の朝まで借りる約束だった。だが今夜はどうしても確認しておきたい箇所があった。
由依は唇をかんで思案する。頭の片隅には、数日前に見た修繕帳の文字が浮かんでいた。
大夢なら、ためらわずに書いてしまうだろう。けれど、彼女は胸の奥で小さな抵抗を感じていた。もし帳面を使えば、確かにノートは目の前に現れるかもしれない。だが、それは友人が自分で作った「努力の結晶」を、一晩借りて楽をすることになる。
「でも、ほんの…」
由依は自分に言い訳を探しながら、旧校舎の修繕室へ足を運んだ。放課後リペアログの鍵を持つ大夢が、工具を整えていたところに顔を出す。
「どうした?」
「だけ、帳面を貸してほしいの」
彼女の真剣な声に、大夢は眉を上げた。
「試験前に思い出したか。…で、何を直したい?」
「ノート。社会科の。今夜だけでいい」
しばしの沈黙。大夢は帳面を渡す前に、あえて聞いた。
「それは誰の「忘れ物」だ? 由依の努力か、友だちの努力か」
由依は返事に詰まる。胸の奥でずっと感じていた違和感を、言葉にされてしまった。
彼女は、鉛筆を取り出しページに書いた。
紙片を切り、机に貼る。瞬き一つの間に、分厚いノートが姿を現した。表紙には確かに友人の名前がある。
「…出てきた」
由依はほっとしたように微笑んだが、その表情を見ていた大夢は肩を落とした。
「それ、明日の朝には差し戻される。お前もわかってるだろ」
「…うん。でも、今夜だけでいい」
由依はノートを抱え、家へ帰った。ページを開くと、見慣れた友人の字が整然と並んでいる。要点を追うだけで理解が進む。便利さに甘えた安堵と、胸の奥のざらつき。その両方を抱えたまま眠りについた。
翌朝、机の上にはノートがきれいさっぱり消えていた。代わりに残されたのは、やはり「差し戻し」の赤い判と、短い文言。
教室に入ってきた友人が、笑顔で言った。
「ごめん、昨日ノート貸すの忘れちゃって! 今朝持ってきたから、あとで写す?」
由依は言葉を失った。昨夜、彼女が「楽をした」時間は、現実から切り離され、誰にも届かないまま消えたのだ。
昼休み、修繕室に集まった六人に、由依は素直に経緯を話した。静まり返る空気の中、卓哉が冗談めかして言った。
「便利すぎるって、こういうことか」
由依は下を向いたまま拳を握る。
「私、間違えた。…だから、掟に追加してほしい」
彼女の声は震えていたが、真剣だった。
大夢はうなずき、黒板にチョークを走らせる。
奈緒子が「そのほうが面白い実験になる」と笑い、龍平は「ズルは長続きしない」と短く付け加えた。咲子は手帳に記録を写し取り、由依は
テスト前夜のえんぴつ騒動は、結局「失敗」として記録された。だが、それは大切な線引きを可視化する第一歩になった。
便利さに流されれば、誰かの努力を踏みにじる。直すことは、同時に「奪う」ことにもなる—その重さを六人は心に刻んだ。
始業前のチャイムが鳴る少し前、五月の湿気がまだ薄い朝の教室は、紙の匂いが濃かった。黒板には「中間テスト一日目 社会/数学」と白い文字が残り、前の席では消しゴムの角を温存するように撫でる手つきが見えた。
由依は鞄の中に昨夜のざらつきを残したまま、筆箱を開けた。芯を出したシャープペン、削ったばかりの鉛筆、替えの芯。並べた物の数よりも、胸の奥に並ぶ言葉のほうが多い。「努力の代替は禁止」。自分で書かせたその一文が、机の天板にうっすら映る。
「…やば」
背後から小さな声。振り向くと、龍平が細い鉛筆をくるくる回しながら眉を寄せていた。芯先が欠け、つけたばかりの尖りがもろく崩れる。
「朝、廊下の鉛筆削り、詰まってた。替え刃がずれてるっぽい」
「先生に言った?」
「言ったけど、「あとで見ておく」って」
始業のチャイムが鳴った。監督の熊切先生が答案用紙の束を抱えて入ってくる。白いシャツの袖が少し短く、腕時計のベルトがきゅっと締まっていた。
「。携帯は電源を切って鞄へ。配ったら、表紙に名前と組を」
紙の擦れる音が一気に増え、緊張が教室の床板を硬くする。卓哉が肩を寄せて囁いた。
「俺、一本しか鉛筆ない。シャープ壊れた」
「貸すよ」
由依が差し出しかけた手を、大夢の視線が止めた。首を横に振るのではなく、目で「待て」と言う。
「始まる前に、直せるものは直す。道具は「全員のもの」にする」
大夢は挙手した。「先生、廊下の手動の鉛筆削り、詰まってます。今、直せば全員使えます。許可をください」
熊切先生は一瞬だけ目を細め、それからため息を一つ。「三分。騒ぐなよ。壊したら後で職員室な」
「ありがとうございます」
大夢と龍平、由依、そして筆記用具難民の卓哉が席を立つ。教室と廊下の境目で咲子が手のひらを上げる。「記録、回すよ。私は監督の先生に「作業内容」の説明を続ける」
奈緒子は既に旧校舎の鍵と小ぶりのドライバーセットを抱えていた。「刃のクリアランス、見てみる」
廊下の端、壁に固定された手動式の鉛筆削りは、透明のカバー越しに折れ芯が詰まっているのが見えた。使用停止の紙がテープ留めされている。大夢は紙をめくって、由依にスマホの時計を見せる。「08:28開始、三分勝負」
奈緒子が素早く状況を口に出す。「折れ芯×2、刃座のずれ、バネ弱り。工具必要。…帳面、使う?」
由依が短く息を吸う。「「直せば全員が使える」が満たせるなら。ルール①も侵さない。記録と証人あり。先生の許可あり」
大夢は修繕帳を取り出し、最小限の文言で書く。
紙片を削り器の側面に貼る。透明カバーの内側で、固まっていた黒い芯がたわんで外れる。刃の角度が元の位置に戻り、バネが張りを取り戻す。奈緒子が手早く外カバーを外し、付着した粉を払い、戻す。ハンドルを一度回すと、かちり、と軽い音がした。
「—通る」
龍平が短く言い、試しに自分の鉛筆を差し込んで回す。規則正しい削り屑がくるくる落ちる。由依はすかさず掲示板用のメモに記録を書く。「許可:熊切、立会:四名、目的:公平性確保、観察:音・粉・刃角正常化」。咲子が職員室印の貸出ハンコを押すみたいに、今日の日付を書き足した。
「ありがと。戻るぞ」
教室に戻ると、熊切先生が秒針を見てうなずいた。「全員、着席。テスト開始は三分後。鉛筆の貸し借りは今のうちだけ」
卓哉は大夢に小声で礼を言い、自分の鉛筆を削りなおして笑う。「面白いのは最後、って言ったけど、今のもけっこう面白かった」
「面白さは、誰かの困り顔を消せたときだけだ」
大夢は自分にも聞かせるように言い、答案用紙に名前を書いた。
科目が変わり、午前が終わる頃、えんぴつ騒動は別の形でまた起きた。前の列の男子の鉛筆が、芯の中で縦に割れたのだ。削っても先が粉のように崩れる。彼は半ば泣きそうな顔で手を挙げたが、試験中はしゃべれない。熊切先生が気づき、黒板にチョークで書く。「静粛。予備は教卓前」
予備は二本。教室の空気がこわばる。大夢は立ち上がれない。由依は視線だけで合図を送った。—「第三案」。
休み時間、六人は机を寄せた。卓哉が鞄の底から、短すぎて使わなくなった鉛筆を五本取り出す。「これ、継手があればいけるんだけど」
奈緒子が頷く。「スリーブ作ればいい。ストローでもいいけど、強度が足りない。…古いペンのキャップを切れば」
咲子は手帳をぱらぱらめくり、「図書委員会の「忘れ物保管期間切れ」の処理、今日の放課後。寄贈申請を回せば、備品化できる」と事務の道を指さす。
龍平が小さく笑った。「俺、裏口。用度係の倉庫に、破れたペンの箱がある。キャップがいくつか死んでる」
「帳面は?」
由依が問う。大夢は即答しなかった。目の前の短い鉛筆たちは、生徒の時間の屑だ。誰かの焦りと、授業の積み重ねの証拠だ。魔法の紙片で「新品」に変えるのは簡単だが、それは所有者の歴史を塗りつぶす。
「使わない。物は物のままにして、工夫でつなぐ。必要なら「安全性の回復」だけに限定する」
放課後、旧校舎の修繕室は小さな工房になった。捨てられる予定のペンのキャップを長さごとに切り、内側を少し温めて径を調整する。短い鉛筆の端を面取りして差し込むと、継ぎ目が目立たない一本ができた。奈緒子が曲げ試験のように軽くしならせ、「実用強度、合格」と笑う。卓哉が紙に「借りえんぴつ」と手書きし、箱に入れた。
咲子は図書館のカウンターに行き、司書の先生に説明をした。「忘れ物の処理で出た鉛筆の再活用です。衛生面はアルコール拭き。貸出ノートつけます。事故があったら責任は私たちの部—えっと、まだ部じゃないんですが—「放課後リペアログ」が持ちます」
言い終える前に、司書の先生は柔らかく笑った。「いい名前ね。掲示用の紙、きれいに作って持ってきて」
その「貸しえんぴつ箱」は、翌朝には黒板の隅に置かれ、熊切先生が「必要な者は始まる前に一本だけ持っていけ。返却はここだ」と指さした。箱の脇には、由依が書いた小さな注意書きがある。
昼休み、修繕帳のページには、朝の削り器の項目の下に新しい印字が現れた。
その下に、小さな文字が追加される。
「誰かが見ている」の文句がまたよぎる。怖い、というよりは、気を抜けないという感覚だった。監査人でも、先生でも、七年前の誰かでもいい。見られて困らないやり方だけを選ぶ。
放課後、由依は昨日の友人にノートを返し、頭を下げた。「昨日の夜、あなたのノートを「復旧」した。ごめん。今度は、私のまとめを見せる。間違ってたら教えて」
友人は少し驚いて、それから笑った。「じゃあ、放課後に。屋上、風が気持ちいいから」
ノート交換の時間は、風と同じくらいさわやかだった。ペン先が紙を走る音が重なり、由依は胸のざらつきが薄れるのを感じた。自分の手で書く文字が、自分の理解を深くする。便利さに頼らないことが、こんなにも面倒で、こんなにも気持ちいい。
夜、修繕室で六人は紙を一枚増やした。掟の下に、短い文を足す。
「言い換えると、「貸しえんぴつ箱」は〇、「特定の誰かのえんぴつを新品にする」は×」
咲子が確認する。龍平はうなずき、卓哉は親指を立てた。奈緒子は「次は「安全性の評価表」作ろ」と提案し、由依は「第三案リスト」を作りはじめる。大夢は工具箱の蓋を閉じながら、紙に短く書き込んだ。
その夜のページの端に、赤い小さな丸が一つ、遅れて押された。
「観察」欄にはこうあった。
誰の手かも、何の印かもわからない。今日のやり方は間違っていないらしい。六人はその丸を見て、小さく頷きあった。
えんぴつ騒動は、終わった。箱の鉛筆は明日も減り、また補充されるだろう。誰かの短い鉛筆が、別の誰かの手の中で長く生きる。便利さと努力のあいだに線を引き、踏み越えないように進む—今日のログは、そう書いて閉じられた。
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