第51話 古道に響く声


 熊野古道での一夜が明けた。民宿の質素な朝食は、歩き疲れた体に優しく染み渡った。二人は、宿の主人に見送られ、再び石畳の道へと足を踏み出した。目指すは、熊野本宮大社だ。

 この日の道は、昨日よりもさらに険しく、山深かった。集落は途切れ、聞こえるのは鳥の声と、時折、谷を渡る風の音だけ。二人は、言葉少なに、ただ黙々と歩き続けた。

 だが、その沈黙は、心地の良いものだった。隣を歩く互いの息遣い、地面を踏む足音、それら全てが、言葉よりも雄弁な対話になっている。彼は、シオンとなら、このまま何時間でも、黙って歩き続けられるような気がした。


 道の途中に、小さな地蔵が祀られている「王子」と呼ばれる休憩所が、いくつもあった。二人は、その度に足を止め、水を飲み、息を整えた。

 ある王子で休んでいた時、反対方向から歩いてきた、外国人のバックパッカーと出会った。年の頃は、彼らと同じくらいだろうか。

 「Konnichiwa!」

 彼は、流暢な日本語で話しかけてきた。スペインから来たと言い、もう一週間以上、この古道を歩き続けているという。

 「This path is amazing. It’s like, walking inside of Japanese history and soul.(この道は、すごいね。日本の歴史と魂の中を、歩いているみたいだ)」

 彼は、なぜこの道を歩こうと思ったのか、尋ねてみた。

 「My life was… a little bit messy.(僕の人生は…ちょっと、ぐちゃぐちゃだったんだ)」

 彼は、少しだけ、遠い目をした。

 「I wanted to find something real. Something to believe in. Not God, but… something inside of myself.(何か、本物を見つけたかった。信じられる何かをね。神様じゃなくて…自分自身の内にある、何かを)」

 その言葉に、彼も、そしてシオンも、心を揺さぶられた。国も、文化も、言葉も違う。だが、この道に求めているものは、驚くほど似通っていた。


 バックパッカーの青年と別れ、再び歩き始める。

 「…世界中、同じなんだな」

 シオンが、ぽつりと呟いた。

 「みんな、何かを探して、もがいてる。ぐちゃぐちゃの自分を、どうにかしたくて、歩き続けてる」

 「ああ」

 「あんたの書く物語も、きっと、そういう話なんだろうな。トラックの運転手も、あんたを乗せることで、自分の人生を、誰かに肯定してほしいのかもしれない。自分の旅が、無駄じゃなかったって」

 シオンの洞察は、いつも、彼の物語に、新しい光を当ててくれる。

 彼の物語は、単なる群像劇ではない。それは、何かを探し求める、全ての「旅人」たちのための、祈りのような物語になるのかもしれない。彼は、そんな予感を、強く抱いていた。


 午後になり、道は、熊野川の雄大な流れに沿うようになった。川のせせらぎが、疲れた体に心地よい。

 やがて、杉木立の向こうに、熊野本宮大社の、大きな鳥居が見えてきた。

 そこは、那智大社とも、伊勢神宮とも違う、素朴で、力強く、そして、どこまでも懐の深い空気に満ちていた。全ての祈りを、黙って受け止めてくれるような、大いなる優しさが、そこにはあった。

 二人は、本殿の前で、長く、深く、頭を下げた。

 それは、何かを願う祈りではなかった。この道を歩き、多くの声を聞き、そして、無事にここまでたどり着けたことへの、静かな感謝の祈りだった。

 参拝を終え、彼は、かつて本宮があったという、大斎原(おおゆのはら)へと向かった。そこには、日本一大きな、巨大な鳥居だけが、田園風景の中に、静かにそびえ立っている。

 その鳥居を見上げた瞬間、彼は、自分が書くべき物語の、ラストシーンが、はっきりと見えた。

 彼の物語の運転手は、長い旅の果てに、この大鳥居の前に、一人、立つだろう。そして、自分が運んできた、全ての荷物、全ての人々の想いを、この大いなる何かに、静かに手渡すのだ。

 それは、終わりではない。新たな旅への、始まりの儀式として。

 彼は、その光景を、決して忘れないように、心のフィルムに、強く、強く、焼き付けた。

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