第49話 星空の下の対話
潮岬の夜は、深く、そして静かだった。写真家の女性が、時折シャッターを切る音だけが、満天の星空の下に、小さく響いている。彼とシオンは、芝生の上に、買っておいた銀マットを敷き、並んで寝転がっていた。
肌を撫でる夜風は、少しだけ冷たい。だが、隣にいるシオンの体温が、不思議な温もりとして伝わってくる。
「…すごい数の星」
シオンが、天の川を見上げながら、吐息のように言った。
「東京じゃ、絶対に見えない光だ」
「北海道でも見たよ。でも、その時とは、全然違う景色に見える」
「なんで?」
「…隣に、君がいるからかな」
彼は、思ったままを、口にした。暗闇が、彼の素直な言葉を引き出してくれたのかもしれない。
シオンは、何も答えなかった。ただ、彼の方に、少しだけ、体を寄せたような気がした。
しばらく、星空を眺める沈黙が続いた。
やがて、シオンが、ぽつりと語り始めた。
「…私、ずっと、終わってると思ってたんだ。この世界も、自分も」
それは、彼が初めて聞く、彼女の心の内だった。
「毎日、同じようなニュースが流れて、誰もが何かに怒ってて、でも、結局、何も変わらない。くだらないなって。だから、何も期待しない、何も求めない。そうやって、心を閉ざして生きてきた。その方が、傷つかなくて済むから」
彼女の声は、星空のように、静かで、澄んでいた。
「でも」と彼女は続けた。
「あんたの旅の話を聞いて、あんたが見てきた景色の話を聞いて…伊勢の森を歩いて、この夕陽を見て、この星空を見て。…まだ、この世界にも、綺麗なものは、たくさん残ってるんだなって、思った。終わってるのは、世界じゃなくて、私の目の方だったのかも」
その告白は、彼にとって、どんな賛辞の言葉よりも、嬉しかった。自分の旅が、閉ざされた誰かの心を、少しだけ、開くことができたのかもしれない。
「俺も、同じだよ」と彼は言った。
「旅に出る前は、自分の部屋の机の上が、世界の全てだと思ってた。書けない自分は、価値がないんだって。でも、外に出て、たくさんの人に出会って、自分が、いかに狭い世界で生きてたか、思い知らされたんだ」
二人は、互いの傷や、弱さを、初めて、言葉にして分かち合った。それは、恋人同士の甘い囁きとは違う。同じような孤独を知る魂が、互いの存在を確かめ合い、その痛みを共有する、静かで、しかし、とても深い結びつきだった。
夜が更け、写真家の女性が、撮影を終えて彼らの元へやってきた。
「いい写真が撮れたわ。ありがとう」
彼女は、温かいコーヒーを二人にご馳走してくれた。
「あなたたちの旅は、これからどこへ向かうの?」
「熊野古道を、歩こうと思っています」と彼は答えた。
「熊野…いいわね」
女性は、遠い目をして言った。
「あそこは、甦りの道よ。昔から、たくさんの人が、絶望を抱えてあの道を歩き、そして、新しい自分として生まれ変わっていった。あなたたちも、きっと、何かを見つけられるわ」
その言葉は、まるで、これからの二人の旅を、祝福する預言のように響いた。
夜明け前、女性は、次の撮影地へと向かうと言って、静かに去っていった。
残された二人は、東の空が、ゆっくりと白んでいくのを、ただ、黙って見つめていた。
水平線の向こうから、新しい一日が、生まれようとしている。
それは、彼らの、新しい旅の始まりを告げる、力強い光だった。
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