第48話 潮岬の夕陽


 尾鷲の港町で銭湯を見つけ、ようやく魚の匂いを洗い流した二人は、すっかり陽が傾き始めた道を、再び南へと歩き始めた。潮岬までは、まだ遠い。

 「今日は、もう、ヒッチハイクは無理かもな」

 「じゃあ、野宿?」

 シオンの問いに、彼は頷いた。

 「最悪、その覚悟も」

 「…面白いじゃん。望むところだよ」

 彼女は、強がっているのか、本心から面白がっているのか、彼にはまだ、判別がつかなかった。


 だが、幸運にも、一台の車が彼らのために停まってくれた。乗っていたのは、写真家だという、物静かな女性だった。

 「潮岬へ向かうなら、ちょうどよかった。私も、今夜は、そこで星空を撮ろうと思っていたの」

 後部座席には、高価そうなカメラや三脚が、ずらりと並んでいる。

 車は、美しいリアス式海岸が続く、熊野灘沿いの道を進んでいく。夕陽が、海と空を、燃えるようなオレンジ色に染めていた。

 「…綺麗だ」

 シオンが、窓の外を見ながら、小さな声で呟いた。その横顔は、彼が今まで見た中で、一番、穏やかに見えた。

 写真家の女性は、そんな二人を、バックミラー越しに、優しい目で見つめていた。

 「あなたたち、いい被写体になるわね。対照的で、でも、どこか似ている。物語が、始まりそうな二人だわ」

 その言葉に、彼も、シオンも、少しだけ、顔を赤らめた。


 車は、本州最南端、潮岬の灯台の近くにある、駐車場に到着した。

 辺りには、遮るものが何もない、広大な芝生が広がっている。その向こうには、どこまでも続く、太平洋の水平線。

 地球が丸いということを、実感させられる、圧倒的な風景だった。

 太陽が、ゆっくりと、水平線の向こうへと沈んでいく。空は、オレンジから、赤、紫、そして深い藍色へと、刻一刻と、その表情を変えていく。

 三人は、言葉もなく、ただ、その壮大な光景を、それぞれの心に刻みつけていた。

 彼は、この旅で、数えきれないほどの美しい景色を見てきた。だが、今、この場所で、シオンと共に見ているこの夕陽は、そのどれとも違う、特別なものに感じられた。

 それは、彼が一人で「撮ってきた」景色ではない。

 彼女と「共有」する、最初の、忘れられない景色だった。


 太陽が完全に沈み、一番星が瞬き始める。

 「さて、と」

 写真家の女性は、機材の準備を始めた。

 「私は、これから仕事だから。あなたたちは、どうするの?」

 「俺たちは、ここで、星を眺めてます」と彼は答えた。

 見上げれば、天の川が、くっきりと空を横切っている。無数の星々が、まるで、今にも降ってきそうなくらい、近くに見えた。

 世界の終わりを眺めていた彼女が、今、物理的な世界の「端」で、宇宙の始まりを見ている。

 その光景が、ひどく、詩的だと思った。

 彼は、この日の出来事を、いつか、必ず、物語にしようと心に決めた。それは、彼の物語の、重要な転換点になる、そんな予感がした。

 二つの孤独な魂は、本州の最南端で、満天の星空の下、静かに、寄り添っていた。彼の名古屋での物語は、こうして、次なる舞台への、壮大な序曲となって、幕を閉じた。

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