第三話  ぽちの昼寝と、静かな予兆

工房の床、匠の足元で。

もふもふとした、大きな毛の塊が幸せそうに寝息を立てていた。


秋田犬の「ぽち」。

匠が祖父から甲冑と共に受け継いだ、もう一つの大切な家族だ。

艶やかな毛並みと、くるりと巻いた尻尾が自慢の、賢くて穏やかな犬だった。


ぽちは今、犬にとって最大級の安心と信頼を示すポーズ――通称「へそ天」で、ぐっすりと眠りこけている。

無防備に投げ出された四肢と、時折ぴくぴくと動く鼻先が、平和そのものを体現していた。

好きな食べ物は、焼き芋。特技は、このへそ天。


「……ん、こんなもんか」


籠手の研磨作業に一区切りをつけた匠は、ふう、と息をついて立ち上がった。

そして、足元のぽちに気づくと、その表情がふっと和らぐ。

彼は屈みこんで、ぽちの温かい腹を優しく撫でた。


「ぽち、いつも番犬ご苦労さん。まあ、お前がいると、泥棒も癒やされて帰ってしまいそうだけどな」


匠の言葉に応えるように、ぽちは「くぅーん」と甘えたような寝言を漏らす。

その姿に、匠は思わず笑みをこぼした。

この工房での生活は、常にぽちと共にある。

彼が作業に没頭している時も、設計に行き詰まって頭を抱えている時も、ぽちはいつも静かに傍らに寄り添い、彼の心を支えてくれていた。


匠は立ち上がると、壁にかけられた祖父の甲冑と、中央に立つ自作のv0.9を交互に見比べた。

片や、数百年を生き抜いてきた歴史の結晶。

片や、生まれたばかりの未来の可能性。

どちらも、彼にとっては等しく愛おしく、守るべき存在だった。


「よし」


彼は、自分に言い聞かせるように呟いた。


「まず、磨こう」


それは、彼の口癖であり、行動哲学そのものだった。

何か問題が起きた時。何か新しいことを始める時。

迷った時、悩んだ時。

彼はまず、目の前にある“鎧”を磨く。

心を無にして布を動かし、鋼と向き合うことで、思考は研ぎ澄まされ、進むべき道が見えてくるのだ。


彼が再び作業台に向かおうとした、その時だった。


ゴロゴロ……。


遠くで、地鳴りのような音が響いた。

空気が、びりびりと微かに震える。遠雷だ。

ぽちが、もぞりと身じろぎした。

閉じていた瞼が薄く開き、黒い瞳が不安げに匠を見上げる。

動物的な勘が、天候の急変を敏感に感じ取っているのだろう。


「大丈夫だって、ぽち。ただの雷だよ」


匠はそう言って安心させようとしたが、彼自身も窓の外に目をやって、わずかに眉をひそめた。

さっきまで薄曇りだった空は、いつの間にか墨を流したような分厚い暗雲に覆われている。


ポツ、ポツ……。


工房の屋根を、大粒の雨滴が叩き始めた。

その音は、瞬く間に数を増し、ザーッという激しいノイズへと変わっていく。まるで、空に穴が空いたかのようだ。


ブブッ、ブブッ。


作業台に置いていた匠のスマートフォンが、短い振動を繰り返した。画面には、自治体から発信された緊急速報が表示されている。


【大雨・洪水警報 土砂災害警戒情報】


【三木市に警戒レベル4、避難指示を発令。危険な場所から全員避難してください】


「……レベル4?」


さすがに匠の表情も険しくなる。

ただの夕立ではない。これは、ラジオが言っていた「線状降水帯」が、現実のものとなったということだ。

工房の壁に設置されたデジタル温湿度計の隣には、簡易的な気圧計も取り付けられている。

その針が、見たこともないほどの勢いで下降しているのが見て取れた。


ゴロゴロ……ゴロゴロッ!


先ほどよりもずっと近くで、雷鳴が轟いた。

稲光が窓を青白く照らし、工房の中の二つの鎧のシルエットを一瞬だけ浮かび上がらせる。


「クゥン……」


ぽちが、すっかり目を覚まして、不安そうに鼻を鳴らした。

匠の足元にすり寄り、守ってくれと言わんばかりに身体を預けてくる。


「大丈夫、大丈夫だ」


匠は、ぽちの頭を力強く撫でながら、窓の外の荒れ狂う景色を見つめていた。

彼の工房は高台にあり、頑丈に作られているから、直接的な危険は少ないだろう。だが、近隣の川や、背後にそびえる山の斜面は……?


彼の脳裏に、v0.9の設計図が浮かび上がる。

関節トルク、最大出力、回生効率、そして、稼働限界時間。

まだ、誰も救ったことのない、ただの試作品。

人を護る“道”となることを夢見て作られた、鉄の塊。


激しい雨音と雷鳴が、まるで出立の合図であるかのように、工房を包み込んでいた。


静かな予兆の時間は終わり、物語は、運命の夜へと向かって、大きく舵を切ろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る