第二話 現在時制へ—三木の工房

兵庫県三木市。

古くからの田園風景と、新興の住宅街が緩やかに混ざり合うこの街の、さらに奥まった一角にその工房はあった。

築百年はあろうかという古民家を改装したその場所は、静けさと、ものづくりの気配に満ちている。


工房の主の名は、藤林 匠(ふじばやし たくみ)。二十代半ばの、どこにでもいそうな青年だ。

ただ、その瞳だけは、一つのことに没頭する職人特有の、深く澄んだ光を宿していた。


彼の目の前には、一体の甲冑が鎮座している。

戦国時代に作られた、本物の胴丸具足。彼の祖父が、生涯をかけて手入れをしてきた大切な遺品だ。

黒漆塗りの鉄と革で構成されたそれは、数百年もの時を経てもなお、武具としての威厳と、工芸品としての美しさを失っていなかった。


「……よし」


匠は小さく呟くと、柔らかい綿布を手に取り、胴の表面を優しく拭い始めた。

油と、金属と、古い木の匂いが混じり合った、彼にとっては何よりも落ち着く香りがふわりと漂う。

彼の祖父は甲冑師の家系の最後の跡取りで、戦乱の世が終わった後も、ただひたすらに武具を「守り」「磨く」ことを生業としてきた。


『いいかい、匠。鎧はな、ただの道具じゃない。これを着た人の命を、背負うべきものを、そして何より、その者の心を護るための“道”なんだ』


幼い頃、祖父から繰り返し聞かされた言葉が、今も耳の奥で響いている。

だから、匠にとって甲冑の手入れは、単なる作業ではない。

祖父との対話であり、武具に込められた祈りの詞(ことば)を読み解くための、神聖な儀式にも似ていた。


工房の片隅では、彼の儀式とは対照的な、現代的な機械音が静かに響いている。

大型の3Dプリンタと、五軸のNC加工機。

それらが、匠のもう一つの顔を物語っていた。

彼は、古きを尊ぶ職人であると同時に、新しきを創り出す研究者でもあったのだ。


彼の視線が、工房の中央に置かれたもう一体の“鎧”へと移る。

それは、祖父の甲冑を現代の技術で再解釈した、彼だけの作品。

個人防衛強化甲冑三神器統合型――試作機バージョン0.9。


その外骨格フレームは、軽量かつ強靭なチタン合金で3Dプリントされ、関節部には精密なサーボモーターと人工筋肉が組み込まれている。

外装は、戦国甲冑の意匠を色濃く反映していた。

兜の吹き返しや、肩を守る大袖、草摺(くさずり)の形状。

しかし、その素材はカーボンとセラミックの複合装甲であり、明らかに現代のテクノロジーの産物だった。


今、匠が手仕上げしているのは、そのv0.9の籠手(こて)部分の外装パネルだ。

3Dプリンタから出力されたばかりの積層痕を、彼はサンドペーパーで丹念に磨き上げ、表面を鏡のように滑らかにしていく。


「……もう少し、ここの曲面がな」


独り言を呟きながら、指先でカーブを確かめる。

彼の頭の中には、完璧な設計図が存在する。

それは、CADデータのようなデジタルなものではない。

祖父から受け継いだ、身体に染みついた感覚的な設計思想だ。


工房の隅に置かれたラジオが、低い音量でニュースを流していた。


『……気象庁によりますと、西日本に停滞する前線の影響で、今夜から明日にかけて、局地的に非常に激しい雨が降る見込みです。特に、近畿地方の山間部では、線状降水帯が発生する可能性があり、土砂災害に厳重な警戒が必要です……』


だが、作業に没頭する匠の耳に、その警告はほとんど届いていなかった。

彼の意識は、すべて手のひらの下にある籠手の、ミクロン単位の凹凸に集中している。

彼にとって、世界とはこの工房そのものであり、鎧こそが彼の宇宙だった。


机の上には、祖父が遺した手記が開かれている。

そこには、甲冑の各部位の設計図と共に、筆で書かれた祈りのような言葉が添えられていた。


『八咫鏡(やたのかがみ)のごとく、森羅万象を映し、真実を見極める眼(まなこ)を。』


『草薙剣(くさなぎのつるぎ)のごとく、災いを薙ぎ払い、道を切り拓く腕(かいな)を。』


『八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のごとく、尽きることなき生命の力を宿す魂(たま)を。』


匠は、この三種の神器になぞらえた祖父の祈りを、v0.9のコアコンセプトとしていた。

多層センサーと認識AIを統合した《八咫》モジュール。

非殺傷の制圧・救助ツールを内蔵した《草薙》モジュール。

そして、エネルギー供給とAIの人格を司る《勾玉》モジュール。


まだ、そのすべてが完璧に機能するわけではない。

特に動力源は課題で、高密度のバッテリーを搭載してはいるが、フル稼働すれば30分から45分程度しかもたない。

それでも、匠は信じていた。

この鎧が、いつか祖父の言葉通り、人を護る“道”となることを。


シュッシュッ、というペーパーの擦れる音だけが、工房に響き続ける。


窓の外では、灰色の雲がゆっくりと空を覆い始めていた。


静かなる日常に、破滅の足音が、すぐそこまで忍び寄っていることに、まだ誰も気づいてはいなかった。

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