第二章 祖父の手、匠の道

第四話  手入れの作法

匠の脳裏に、古い記憶が蘇る。

それは、まだ彼が小学生だった頃の、ある夏の日の昼下がりだった。

蝉時雨が工房の屋根に降り注ぎ、むっとするような熱気が満ちていた。

幼い匠は、工房の隅で、祖父が甲冑を手入れする姿をじっと見つめていた。


祖父、藤林宗一郎(そういちろう)は、寡黙だが、その分厚い手は驚くほど雄弁な職人だった。

その手が生み出すものは何もないが、数百年前に作られた武具に新たな命を吹き込む、守りの手を持っていた。


「匠、こっちへ来なさい」


低いが、よく通る声だった。

呼ばれた匠は、ぱたぱたと駆け寄る。

目の前には、分解され、部位ごとに丁寧に並べられた胴丸具足があった。

黒漆の小札(こざね)が、鈍い光を放っている。


「これを、拭いてみなさい」


祖父が手渡したのは、油を染み込ませた小さな綿布だった。

匠はおそるおそるそれを受け取ると、祖父が指差した草摺(くさずり)の一枚を、見様見真似で拭き始めた。


「こするんじゃない。撫でるんだ」


祖父の手が、匠の小さな手の上にそっと重ねられた。

ごつごつとして、傷だらけだが、不思議なほど温かい手だった。


「鎧と話をするように、だ。長いことご苦労さん、いつもありがとうな、と。心を込めて、優しく、優しく……」


祖父に導かれるままに布を動かすと、それまでただの鉄の板にしか見えなかった小札が、まるで呼吸を始めたかのように、しっとりとした艶を帯びていくのが分かった。

油の匂いと、微かに漂う香の匂いが混じり合い、匠の心を落ち着かせた。


手入れは、一つの儀式のように、決められた手順で進んでいく。

まず、全ての部品を分解し、埃を払う。

次に、油を含ませた布で金属部分を拭き清め、錆を防ぐ。

革や紐の部分は、硬化しないように専用の油を塗り込む。

最後に、全ての部品を元通りに組み上げ、風通しの良い場所で陰干しする。


それは、途方もなく時間のかかる、根気のいる作業だった。


「じいちゃん、どうしてこんな面倒なことするの? 新しいのを作ったほうが早くない?」


幼い匠が素朴な疑問を口にすると、祖父は初めて手を止め、優しい目で孫を見つめた。


「新しいものを作るのが、わしらの仕事やないからな」


祖父は、ゆっくりと語り始めた。


「わしらの仕事は、守ることだ。この鎧が作られた時の職人の想い、これを着て戦った武士の覚悟、そして、数百年という時間を、この鎧が無事に越えてきたという事実そのものを、次の時代に繋いでいく。それが、わしらの役目なんだ」


祖父は立ち上がると、木箱から一枚の古い油紙を取り出した。


「鎧はな、匠。ただの道具じゃない。これを着た人の命を、背負うべきものを、そして何より、その者の心を護るための“道”なんだ」


彼はそう言うと、磨き上げた兜を、その油紙で丁寧に包んだ。


「だから、手入れを怠るということは、その道を閉ざしてしまうことと同じだ。使い手への敬意を忘れ、ただの鉄の塊にしてしまうことなんだ。それだけは、絶対にしちゃいかん」


その時の祖父の横顔は、厳しく、そしてどこか誇らしげで、幼い匠の心に深く刻み込まれた。

鎧は、道である。

その言葉の意味を、当時の彼が完全に理解できたわけではなかった。

だが、祖父の温かい手の感触と、油と香の匂い、そして、心を込めて磨き上げた甲冑が放つ静かな輝きは、彼のものづくりの原点として、今もなお鮮やかに生き続けている。


――現在。


工房で、匠はv0.9の籠手を磨く手をふと止めた。

窓の外は、依然として激しい雨が降り続いている。

遠雷の音が、地響きのように工房を揺らす。

彼の脳裏には、祖父の言葉がこだましていた。


『心を護るための、道』


v0.9は、人を護るために作っている。

だが、それは本当に“道”となりうるのだろうか。

ただの高性能な機械、冷たい鉄の塊で終わってしまうのではないか。

その問いに、まだ匠は答えを出せずにいた。


彼はただ、祖父に教わった通り、目の前にある鎧を磨き続ける。


心を込めて、優しく、対話するように。


それが、彼にできる唯一のことだったからだ。

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