夜の戯れ

 彼は、一般的な教育に使用される孝経こうけいの書を暗唱したのではなく、日夜、詩歌や論語などを研究している翰林院かんりんいん学士が持つような、注付きの孝経の書を暗唱したのだ。


 内文学館でも孝経の講義で使用するのは、注がつかないほうの書物だ。注がつくと、単純に覚える量が増え煩雑になってしまうからだ。


 皇太子ならいざ知らず、他の太子達は、注付きの方を使っての教育は受けていないはずだ。それなのになぜ、呆子殿下と呼ばれている彼が知っていたのか。しかも、暗唱できるほどに。


 噂と彼の言動のチグハグさが、小琳の心に違和感の雫を垂らした。

 それは、ほんの小さな雫だったが、凪いでいた心に波紋を立てるには充分だった。

 胸がざわついている。


「彼は本当に、呆子殿下なんて呼ばれるような人か?」


 噂を聞く限りでは、間違いなく放埒の太子だ。

 しかし、初日から彼の言動の端々に見える才知の片鱗が、噂を鵜呑みにさせてくれない。


 最初に違和感を覚えたのは、初日に彼の性を確認した時、彼がぼそりと発した『柳韓りゅうかん』という言葉だ。

 柳韓とは、その昔、柳相りゅうそうという詩人と韓梁元かんりょうげんという官吏がいて、二人とも口が達者すぎたがために、流刑に処せられたり官位を取り上げられたことから、『不用意な発言は災いを招く』という意味を持つ言葉だ。


 しかし、この言葉を使う者は、学士や詩人などのごく一部の者だけである。

 成り立ちを知っていないと、意味が通じないからだ。

 それに、同じ意味で世間に広く知られた『口是禍之門口は災いの門』という言葉もあるし、こちらを使うのが一般的だ。


 つまり、咄嗟に彼の口からは、学士や詩人が使うような言葉が出るということ。相応の知識が根付いていると言っても良いだろう。


 しかし、その時はさして気にしなかった。

 一応相手は太子だし、知っていることもあり得るな、くらいの認識だった。

 その認識が、今日の件で見事に揺らぐこととなった。


「馬鹿のふりをしてるってこと? だとしたら、なんで?」


 普通に考えれば、太子なのだし、周囲からは賢いと思われていたほうが良いに決まっている。

 彼については、その思考回路も講義を嫌がる理由も何も掴めていなかった。

 今のところ、噂で知っていることのほうが多いくらいだ。


「こんなに謎の多い教え子もはじめてだ」


 普通であれば面倒な生徒だと、女史達には厭われるような者なのだが。


「まあ、やりがいはあるか」


 小琳は火を消して、再度寝台に転がると瞼を閉じた。




         ◆




 皇城の夜はとても静かだ。

 音と言えば、歩哨の足音、手にした松明がバチバチと燃える音、そして、次の休日はどうするだの、眠いだのと話す衛兵の声くらいだ。


 内朝に位置する西湖宮ももちろん、夜ともなればひっそりと静まり返る。

 が、成嵐が今いる場所は、とても賑やかな上に華やかだった。


「あー……慈于め、変なのを連れてきやがって」


 成嵐は杯にたっぷりと入っていた白酒を、グイッと一気にあおる。


「あら、ラン様ったら珍しく荒ぶってますね。何かおありで?」


 空になった杯に、嫋やかな美女が酒を注いだ。

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