ニッコリ
「剣を携えた者は強く見えるでしょう。紫の袍を着た者は偉く見えるでしょう。しかし、それらは奪うことのできるものです。剣がなければ逃げるしかできず、袍を脱げば平民と変わりありません。奪えるということは、代わりがきくということなのです」
きっと、彼にはただの小言に聞こえるだろう。
今はそれでいい。口うるさい年増女官が何か言っていたな、程度でいい。
小琳は、諭すでも命じるでもない穏やかな声音で、訥々と言葉を続ける。
「四殿下、誰にも奪えないものを身につけてください。剣で貫かれようが、権力で僻地に追われようが、頭の中にあるものだけは、決して誰にも奪えません。学びは無駄になりません。それはいつかあなたの大きな助けになりますから」
小琳は、自らの頭を指差して言明した。
まっすぐに小琳を見つめる成嵐の瞳が、震えるように揺れていた。しかし、彼はハッとしたように我を取り戻すと、皮肉げに鼻で笑いながら目を閉じた。
次に瞼を上げた時には、瞳の揺れは消えていた。
にっこりと綺麗に笑う姿は、宮廷絵師にでも描かせたくなるほど整っている。
なんとも嘘くさい。
笑うほんの一瞬前、瞳の奥に猜疑が横切ったのを、小琳は見逃していなかった。
まるで、警戒心の強い野良犬だ。宮中住まいの随分と毛並みの良い野良犬だが。
「実に説教臭い台詞だ。さすがは、女史長様。可愛げがないね」
「ふふ、私は教えを説く師ですから、可愛げなど必要ないのですよ」
「そりゃそうだ」
互いに笑みを浮かべてはいるが、言葉の上辺だけで会話している空虚な感じが、なんとも言えない。
(さすがに、数日で信用してもらえるなんて思っちゃいないけど)
師弟の関係に、信頼は必要不可欠だと小琳は思っている。
信じられない相手の言葉は入ってこない。
耳を通り抜けるだけで、何も得られない。それはただの時間の無駄というやつだろう。
今のところ、彼の耳に自分の言葉は風音と同じ。通り過ぎるものでしかない。
それでも、彼を信じて根気強く続けるしかない。
それが、師というものだから。
「師ねえ……周りが言うには、俺は些か足りていないらしいから、苦労するとは思うけどね」
「四殿下、足りないのならば補えばよろしいのですよ。忘れるのならば、忘れられないほど繰り返せばよろしいだけです」
紙が捲れる、かさついた音が先程から続いている。
いつの間にか成嵐の視線も、小琳から小琳の持つ書物へと注がれていた。
パラ、パラ、パラ、と背表紙まで捲り終われば、小琳は書物を力強く両手で挟んだ。パンッ、という大きな音に、ぼうと眺めていた成嵐がビクッと肩を揺らす。
「基本的なことは学んだと言いましたね?」
「い、言ったけど……?」
質問の意図が汲めない成嵐は、片眉を下げて首を傾げた。
「では、孝経十七章の六を暗唱してください」
「はあ!? いきなり!?」
「酒宴の前日に、明日は何々についての詩を読ませるから準備しといてね――なんてこと、誰も言ってくれませんよ」
ちなみに、小琳が持っている書物は、孝経ではなく詩経だ。
本当は今日の講義は、彼がうっかり菊宴で忘れたという詩経をやろうと思っていたのだが、予定変更である。
「孝経は勉学の基本ですよ。四殿下はまず、長幼の順をわきまえ、師に対する礼儀を学ぶ必要性があるな~と思いまして。さあ、学んだというのでしたら、どうぞ諳んじてくださいませ」
そう穏やかな微笑顔で言う小琳の額には、青筋が立ってた。
「で……できなかったら?」
「言いましたでしょう。忘れるのであれば、忘れられないほど繰り返せば良いだけだと」
成嵐の顔が、わかりやすいほど強張った。
「私は可愛げがありませんので、このように突拍子もない課題を出して、教え子を困らせてしまうのですよ。申し訳ありませんね、可愛げが、まったく! なくて」
「お、怒ってるだろ……」
「まさかそんなぁ……」
怒っているに決まってるだろう。
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