第1話 濡れた廊下

六月の雨は、校舎の色を一段暗くした。

 チャイムが鳴っても誰も急がない。濡れた足音だけが、廊下の蛍光灯に薄く反射して伸びていく。


 俺――天城(あまぎ)カイは、昇降口の窓に額を寄せて、曇りガラスみたいな景色をぼんやり眺めていた。

 スマホを開けば、春日(かすが)アヤメからの未読はゼロ、既読はある。文章は丁寧で、句点が多い。スタンプは、前に使ったものの繰り返し。

 「ごめん、委員会立て込んでて。また明日でもいい?」

 昨日も、それに似た文面だった。


 深呼吸して、送信画面に指を置く。

 ──会える?

 文字を打ってから、消す。打って、消す。

 喉の奥がきゅっと詰まる。責める言葉を組むのが怖い。俺が言葉を間違えたら、今より悪くなる気がする。

 だから結局、送ったのは「無理しないで。体調気をつけて」だけだった。


「……お前さ、その“体調気をつけて”って、最近よく言うよな」


 横から覗き込んだ佐伯(さえき)ノゾムが笑った。

 ノゾムは悪気なく、いつも通りで、そこが逆にありがたい。

「うん。言っておいて損はないから」

「まあな。けど、天城、顔色悪いぞ。保健室行く?」

「大丈夫」

 言いながら、胃のあたりがじわりと痛む。

 大丈夫じゃない。でも、ここで弱音を出すと、何かが崩れる気がして言えない。


 窓の外、サッカー部の掛け声が雨に混じって薄まる。

 名前だけはよく聞く。三年の上條(かみじょう)レンジ。背が高くて、走るのが綺麗で、誰とでもすぐ打ち解けるって噂の人。

 アヤメが委員会で“手伝ってもらった”と何度か言っていた名前。


 嫌な連想だと思って、頭から追い出す。

 疑う自分が一番嫌いだ。信じたい相手を疑うのは、信じられなかった自分の責任みたいで苦しいから。


 昇降口で靴を履き替えていると、女子の笑い声が背中で跳ねた。

「春日ちゃん、最近忙しそうだよねー」

「先輩が優しくて助かるってさ。ほら、上條先輩」

 笑いの温度は高くも低くもなく、ただ湿っていた。

 それを“揶揄”と受け取るのは、きっと俺の心が弱っているからだ。


 傘を開いた瞬間、冷たい匂いが鼻腔に入り込む。夏の手前の雨の匂い。

 校門までの道で、俺は何度もスマホを取り出しては、何もせずに仕舞った。

 会いたい。顔を見たい。

 けれど、そう思えば思うほど、言葉はきれいに並ばなくなる。


 コンビニに寄って、ホットコーヒーを買う。

 レジの少年が無言でカップを差し出す。ふたを外して、湯気を吸い込む。すこし落ち着く。

 その時、小さな記憶がふっと浮かんだ。


 ──「強い人って、いいなって思う時があるの」

 去年の秋、アヤメがふと零した言葉。

 宿題が重なって、委員会も重なって、疲れていた時だった。

 俺はそのとき、何と返したっけ。

 「無理しないで」とか、「手伝えることある?」とか、当たり障りのないことしか言えなかった気がする。

 あのときの俺は、彼女の欲しかった答えから、どれくらい遠かったんだろう。


 コーヒーはすぐにぬるくなる。

 紙コップをゴミ箱に捨てる瞬間、指先がわずかに震えた。

 弱いのは、俺だ。


 ***


 翌朝、雨は上がっていたが、空気はまだ重たかった。

 教室に入ると、アヤメは窓側の席で配布物を束ねていた。

 髪を耳にかける仕草。指先の動き。

 目が合いそうになって、逸らされる。

 その逸らし方が、前より少しだけ早い。ほんの少し。それだけで胸が痛む。


「春日、昨日お疲れ」

 と、誰かが声をかける。

「ありがと。先輩が運ぶの手伝ってくれて、助かった」

 アヤメの声は明るい。

 “先輩”の一言が、空気の表面をかすめていく。俺だけに聞こえるみたいに。


 ノゾムが肩をつついた。

「放課後、図書室で勉強する? 英語やばい」

「……ごめん。今日は用事があるかも」

「オーケー。無理すんな」


 黒板に書かれた予定表をぼんやり見る。

 委員会の欄のアヤメの名前は、週に三度。

 俺の視線がそこに留まるのを、誰かに見られた気がして、慌ててノートを開いた。


 授業は、頭の中を素通りしていった。

 教師の声は聞こえるのに、意味が残らない。

 ノートに走らせた文字は、線の太さが不揃いで、ところどころ震えている。

 昼休み、パンの袋を開ける手がうまく動かず、角から破いてしまう。

 些細な失敗が積み重なると、人は簡単に自分を嫌いになれる。


 放課後。

 俺はもう一度だけ、メッセージを送った。

 ──今日、五分でも顔が見たい。

 送信。

 送信した瞬間、心臓が跳ねる。すぐに取り消したくなる衝動を、机の角を掴んで抑えた。

 返事が来るまでの時間は、いつもより長く感じた。


『ごめん、今日も委員会。資料が思ったより多くて。終わったら連絡するね』

 丁寧な文面。句点が多い。

 俺は「分かった。頑張って」と返した。

 本当は、頑張らなくていいよ、と言いたかった。

 でも、それはきっと、わがままだ。


 ***


 図書室に寄ったのは、他に行く場所がなかったからだ。

 窓際の席に、細い肩の女の子が座っていた。

 顔は見えない。ページをめくる動きが、とても静かだった。

 俺は少し離れた席に座り、問題集を開いた。

 文字は目の前にあるのに、意味を結ばない。

 かすかに本の匂い。紙とインクの匂い。

 それだけが、心の表面を落ち着かせてくれる。


 閉館間際、図書室を出ると、廊下は薄暗く、人影が少なかった。

 掲示板の前で足を止める。

 文化祭の準備の張り紙に、アヤメの名前が小さく印刷されている。委員会の集合時間。

 そこに、上條の名前はない。

 ……ないことが、余計に胸をざわつかせる。


 昇降口に向かう途中、階段の踊り場で笑い声がした。

 立ち止まる。

 高くも低くもない、抑えた笑い。

 見上げれば、踊り場の端にふたつの影が寄り添っている。

 誰かは分からない。距離がある。

 見てはいけない気がして、一段降りる。

 背中に、気配が刺さる。

 俺は、走らない。走ると負けだと思ったからだ。

 負けって、何に対しての?


 外に出ると、雨はもう細くなっていた。

 夕焼けが雲の切れ間に薄く滲む。

 スマホが震える。

 画面を開く。アヤメからではない。

 ノゾムだ。

『駅前で新作のドーナツ出てるらしい。甘いの、必要では?』

 必要だ。けれど、今の俺は、味を正しく感じられる自信がない。

 『また今度』と返す。

 送ってから、罪悪感が遅れてやってくる。

 俺はたぶん、誰かの優しさからも逃げている。


 ***


 家に帰って、机にノートを開く。

 ページの端に、小さく書いた。

 〈観察メモ〉

 ・返信の間隔(先週より長い)

 ・句点が増えた(言い切りが多い)

 ・位置共有OFF(先週から)

 ・委員会の頻度(週3→週4?)

 ・目が合う前に逸らされる速度(ほんの少し速い)


 記録してどうする、と自分で思う。

 こんなこと、したくてしてるわけじゃない。

 ただ、何か確かなものが欲しい。

 怒鳴り合いで終わるんじゃなくて、言葉で、事実で、きれいに終わらせたい。

 それが、弱さなのか、ずるさなのか、自分でも分からない。


 ペンを置くと、部屋がやけに静かだった。

 窓の外で、遠くの車が水を撥ねる音がする。

 スマホを枕元に置いて、天井を見つめる。

 眠りに落ちる直前、秋の記憶がもう一度よみがえった。


 ──「強い人って、いいなって思う時があるの」

 あの時のアヤメに、俺は何もあげられなかった。

 今も、きっと。

 だから、彼女が別の強さに寄りかかったとしても、責める言葉を持っていない。

 そう思った瞬間、胸の奥がじくじく痛んだ。


 この夜、俺はまだ知らない。

 “強さ”に寄りかかった先で、彼女がどんな顔をするのか。

 そして、壊れそうな俺の前に、静かに差し出される手があることも。

 優しくて、どこか危うい、その手の温度に、どれほど救われてしまうのかも。


 雨は夜のどこかで止んだ。

 ぬれた廊下は、明日には乾くだろう。

 けれど、足跡の跡だけは、しばらく残る。

 それを辿るようにして、俺は、終わりのほうへ歩いていく。





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