第2話 沈む既読

朝の教室は、カーテン越しに湿気を含んだ光で満ちていた。

 窓の外ではまだ曇り空。雨はやんでいるのに、地面は暗い色のままだ。


 黒板の端に書かれた日直当番の名前。そこに「春日」の文字がある。

 アヤメは、静かにチョークを持って板書を始めていた。

 その横顔を見ただけで、胸がざわつく。


 ノゾムが机に腰かけて、俺の顔を覗き込む。

「天城、顔死んでる。夜、寝た?」

「……うん」

「絶対嘘」

 俺は返事をしない。

 ノゾムはいつも通りだ。けれど、その「いつも通り」にすらついていけなくなっている自分に気づく。


 チャイムが鳴り、授業が始まる。

 先生の声が遠く感じる。ノートの上でペンを動かす指は、知らぬ間に同じ言葉を二度書いていた。

 ページの端に走り書きのように記録してしまう。

 〈昨日の返信:20分遅れ/内容あっさり〉


 気持ち悪い。

 こんなふうに観察する自分が。

 けれど、やめられなかった。観察しなければ、何も見えない。見えなければ、いつの間にか全部失っている気がする。


 昼休み、パンを口に入れても味が分からない。

 教室の後ろから、女子グループの声が聞こえる。

「春日ちゃん、昨日も遅かったんでしょ?」

「うん、委員会がさ……。でも先輩が荷物持ってくれて」

 その“先輩”の二文字に、全身の血が冷える。

 誰も俺の顔を見ていない。

 でも、言葉の棘はこっちに飛んできている気がした。


 アヤメは笑って受け答えしている。

 自然な笑顔。

 俺には最近見せてくれない表情だった。


 ***


 放課後。

 廊下は部活へ向かう生徒の声で賑やかだ。

 俺は机にカバンを置いたまま、廊下に立ち尽くしていた。


 視線の先、踊り場の窓際。

 アヤメが資料の束を抱えて立っている。その隣には上條。

 高い背丈。人懐っこい笑み。軽い仕草で資料を取り上げ、肩越しに抱える。

 アヤメは一瞬だけ戸惑った顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。


 それだけのこと。

 けれど俺には、胸の奥に沈殿する証拠に見えた。

 小さな積み重ねが、人を壊す。


 「カイ」

 背後からノゾムの声。

 振り向くと、心配そうに眉を寄せていた。

「……帰る?」

「うん」

「ならコンビニ寄ろ。甘いもん奢ってやる」

「今はいい」

「そうか」

 ノゾムはそれ以上何も言わなかった。

 ありがたい沈黙。でも、それが逆に重い。


 ***


 夜、机にノートを開く。

 今日も“観察メモ”を書き足す。


 〈視線を逸らす速さ:さらに早い〉

 〈友人の前での笑顔:以前より多い〉

 〈上條と二人でいる場面:2回目〉


 箇条書きにするたび、心臓がじわりと冷える。

 それでも書き続けるのは、事実で自分を納得させたいから。

 怒鳴ったり泣いたりする代わりに、俺は記録するしかない。


 ベッドに横たわる。

 天井のシミを数えていると、スマホが震えた。

 慌てて画面を開く。


『ごめん、疲れてて……今日はおやすみ』


 アヤメからのメッセージ。

 五秒で既読にしてしまった。

 返信を打とうとして、指が止まる。

 「おやすみ」と返せば、また同じ繰り返し。

 でも返さないと、何かが切れる気がする。


 震える手で入力した。

 『おやすみ。無理しないで』


 送信。

 画面の明かりが消えるまで、息を止めていた。


 胸の奥に残ったのは、安心ではなく、沈んでいく既読の重さだった。

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