第5話
〇市街レイヤー調整課
"本日の予定 14時 アオヤマ氏面談"
「うっ」
出勤し予定を確認したナツメは朝からげんなりした。わざわざ休み明けに入れるんじゃなかったと思いながら、業務を開始しようしとした。
その途端。
急に寒気がしてきた。
(残灯村に行ったことは行動ログには残っていないはず。その辺りまで散歩したと言えばなんとか…)
スープのこと、ヤイヅのこと。残灯村のこと。無論違法なことをしているわけでもないが公的な業務を行う人間である以上グレーであることに変わりはない。心象を悪くしてしまうと今後の業務に影響が出る可能性がある。今の仕事は気に入っておりこのまま続けたい。ナツメとしてはできるだけ何も知られないに越したことはない。
何パターンか言い訳を考え、平然とした顔で業務に戻るナツメであった。
〇14時
"感情保全課 アオヤマ"
そう書かれた温かみのある木製のドアをノックすると、
「どうぞ」
と張りのある声が聞こえてきた。
「……失礼します」
恐る恐るドアを開け、白を基調とした部屋に足を踏み入れた瞬間、ナツメは肩の力が抜けるのを感じた。
壁はやわらかな光を放ち、かなり高精度な人工照明を備え、眩しさを感じさせない。温度は心地よく、構えてあるソファも心地良さそうで、とても職場とは思えない雰囲気だった。感情保全課に来るのは2回目だったが、前回の部屋とはまた雰囲気が違う。
「どうぞ、ナツメさん。今日は来てくださってありがとうございます」
奥の椅子に座っていたアオヤマが、にこやかに手を差し伸べた。
思っていたよりも若い。白髪交じりの髪をなでやかに整え、やや痩せた頬、けれど瞳は優しい光を帯びていて、声も落ち着いている。仕事で会う、というより、久しぶりの親戚に出迎えられたような安心感がある。
今朝から胸の奥に残っていた不安は、入室と同時に少し薄らいでいった。
「……ありがとうございます」
ナツメは深く息を吐き、ソファに腰を下ろした。
ふかふかのソファに腰掛け体重を預けると、自分でも意外なほど、身体の緊張がほぐれていく。
「はじめまして。アオヤマです」
きっちりしたスーツ姿なのに、なぜか威圧感がない。ここに来るまで感じていた苛立ちや不安といったものが、今の一言ですっと引いたような感覚さえ覚える。
「ナツメです。本日はよろしくお願いします」
ふっとアオヤマが笑った。口角が上げ、温かい瞳でナツメを見る。
「そうかしこまらないでください。今日は、お話したいだけなんです」
「話、ですか」
「はい」
アオヤマはやや身を乗り出した。
「詳しくはまた後で。まずは」
姿勢を直したアオヤマが指先を動かすと、透明な空間にグラフが浮かび上がった。
「こちらをご覧ください」
色分けされた曲線が一日を区切って並んでいる。
「これはあなたの感情曲線です。以前、とある日のものですね」
ホログラムには、波のようにゆるやかに上下する線が描かれていた。
横軸を時間として、朝はやや低め。昼前に上昇。午後に緩やかに下がり、夜には安定している。ほんのわずかな上下だが、グラフは静かに波をつくっている。
ホログラムを操作し、グラフを拡大するとナツメの行動ログが参照されていた。
「昼休みにコーヒーを飲まれましたね。その直後、ヤイヅさんと話され、幸福度の指標が上がっています。逆に、夕方にかけて少し下降しましたね。疲労や困惑の感情が記録されています。鳥がぐるぐる回っていたのを保存されました」
ナツメは思わず身を乗り出した。まるで心を覗かれているようだ。
「……そうですね。そんな日もあったと思います」
「ええ。ログは正確ですから。呼吸のリズムも落ち着いています。ナツメさんのようにこれだけ安定している方って、意外と珍しいんですよ」
アオヤマは穏やかに笑った。
「これらは決してあなたを責めたり監視したりするものではありません。記録を参照し、行動や感情を振り返ることで、日々の生活の安心を確保したいのです」
「つまり私は……問題はない、ということですか?」
ナツメは尋ねた。
「そうです。あなたの感情曲線は安定しています。とても健康的です。そして、ご自身で行動ログを振り返られたこともありますよね。その意識は、とても素晴らしいものです」
アオヤマはグラフを指でなぞりながら言った。
「あとは、見てください。この小さな揺らぎ。これが自然な心の動きなんです。上下があるからこそ、心はしなやかになる。まっすぐな線や、乱高下のグラフはむしろ危険なんです」
ホログラムのグラフは、確かに大きな乱れはなく、緩やかな波を描いていた。
ナツメは少し胸を撫で下ろした。
「……よかった」
「ええ。あなたはとてもよく適応されています。勤務の評価も安定していますし、特に修正の必要はありませんよ。むしろ、この安定は周りの方にも好影響を与えているといってもいいです」
アオヤマの声は柔らかく部屋に響き、温かい毛布のようにナツメを包んだ。
今朝から感じていた不快感は今この瞬間なくなり、むしろ来て良かったと喜びすら感じている。今までの頑張りや、誇りを持って勤めた業務に対し、真っ直ぐに評価してもらったのだ。
その高揚感のまま、ナツメは疑問を素直にぶつけた。
「では、今日はなぜ呼ばれたのですか?」
静かに、しかし、たしかにその声は部屋に響いた。
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