第4話

〇残灯村


音声案内が途切れた境界を越えてしばらく歩くと、目の前には寄せ集められた建物の迷路が広がっていた。

古い板を釘で打ちつけただけの小屋が並び、継ぎ接ぎの屋根には黒い雨漏りの痕が残っている。

その隙間にはブルーシートのテントも点々と張られ、さらに一部の小屋は屋根の上に板を重ね、無理やり二階に仕立てていた。


屈折率や含有水分量が人工調整されていない自然の空気は、真上から差し込む太陽に対してあまりにも無防備で、だからこそ人々は意識的に影を増やしていた。トタンや布切れで覆われた屋根が幾重にも重なり、陽光を遮ることで辛うじて涼しさを得ている。結果として、昼間でも村は仄暗く、ひやりとした影ばかりが濃く残っていた。一方、あちこちで裸電球が瞬き、ぼんやりと温かい光を放っている。電線はむき出しのまま縦横に引かれ、どこかで唸るようにポータブル発電機が回っていた。


裸足の子どもが縄を張って追いかけっこをし、洗濯物の隙間から猫がのぞく。遠くで犬が吠え、誰かが鍋をかき混ぜる音が重なり合う。都市核の均質な「最適化された音」しか知らないナツメには、その雑多さがかえって心地よかった。


焚き火の匂いがした。

焦げ、湿った木、燃える空気。

都市核ではもう何年も嗅ぐことのない匂い。


ナツメは足を止める。

(……本当に、ここで暮らしているんだ)


すれ違った老人の背には、錆びた猟銃のようなものがかかっていた。老人は怪訝そうにナツメを見たが、何も言わず通り過ぎる。次に現れた女性は魚の入った網を抱えており、目が合うと「よそ者かい」と笑った。


「魚、獲ってきたんですか?」

思わず声をかけると、女性は頷いた。

「生きるには食べ物が必要だからね」

「……毎回獲ってたら大変ですよね」

皺の刻まれた笑顔は、都市核ではまず見ない顔だった。

「生きるのは大変なことさね」

女性は魚を担ぎ直すと、そのまま奥の方へ歩いて行った。


その背を目で追ったとき、ふと鼻をつく匂いがした。

焦げた木と湿った土が混ざり合う、都市核ではとうに失われた匂い。視線を向けると、通りの先で火が揺れていた。

ナツメは足を止め、引き寄せられるようにそちらへ向かった。


煤で黒く汚れた手をした老人が、薪をくべている。彼はナツメに気づくと顎で隣を示した。ナツメはその誘いに従い、焚き火の前に腰を下ろした。

ぱちぱちと薪が割れ、煙が立ち昇る。

薪の上には黒い鍋がかかっていて、ぐつぐつと豆や野菜が煮えていた。

裸電球が薄暗い空間を照らしていることから察するに、調理ボットを動かすくらいの電力はきっとあるはずだった。


「ボットは使わないんですか?」

ナツメが問うと、火を見つめていた老人がゆっくり顔を上げる。

「使えるさ。だが、便利すぎると人間は鈍る」

老人は火かき棒で薪をつつき、ぱちりと音を鳴らした。

「強すぎても駄目、弱すぎても駄目。目で見て、手で感じて、火を調整する。ここじゃそれが“食う”ってことだ」


年齢を感じさせない力のみなぎった真っ直ぐな老人の視線に、ナツメは返す言葉を失った。

立ち上る煙が目にしみて、けれどその不揃いな匂いと熱が、不思議な安心感を伴って胸に残った。


「火……暖かいんですね」

「それしかないからな」

老人は笑った。

「お前たちの都市じゃ、空調が全部決めてくれるんだろ」

「……はい」


向こうからはら子どもたちの笑い声と、調子外れの歌声が混じり合って聞こえてきた。まだまだ日中にも関わらず、夜祭りのようなざわめきが生まれていた。


「これが私らのやり方さ」

老人は鍋の湯気を深く吸い込む。

「効率は悪い。味も毎回ばらつく。でもな……」

彼は火を見据えたまま続けた。

「この匂いがあれば、腹が減ったとわかる」


皿が差し出された。

豆の煮物、焦げたパン、刻んだ野菜。

ナツメは一口食べる。濃淡の定まらない味が舌を刺激した。


「……舌が、起きる」

思わず声に出すと、近くの女性が笑った。

「私らはそれを"味"って呼んでる」


〇夕暮れ


陽が傾くにつれ、村の奥から歌声が強まった。

大人も子どもも調子を外しながら笑い合う。鍋を囲み、薪を割り、テントの切れ端や洗濯物が風に揺れる。


ナツメは気づく。

ここには音声案内も行動ログもない。

なのに、誰も困っていない。

心地いい。

(泊まってみたい。でも……)

見知らぬ闇の中で眠る勇気はなかった。

都市核に戻れば、安全で、静かで、快適な夜が待っている。

その安堵にすがりたい気持ちと、もう少しここにいたい衝動が、せめぎ合う。


ナツメは立ち上がった。


「……そろそろ帰らないと」

もし止めてくれたら、とどこかで思うナツメであったが、

「気をつけて」

老人が手を振る。

焚き火の赤が、その皺だらけの顔に揺れていた。


〇帰路


背を向けて歩き出すと、どんどん遠くなる背後の闇に、まだ笑い声が続いている気がした。それを振り切るように歩みを速める。

服に染みついた煙の匂いがふっと立ち上る。

その匂いは、都市核の均質な空気の中でも、しばらく消えなかった。


ただし。行動ログに、匂いは残らない。

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