第2話
俺の席の前に立つ、朝倉。
「なんか緊張するよなー初日ってさ。お互い、いいスタート切ろうぜ?」
軽やかな声。
だが俺の耳に残っているのは、あの夜のバーカウンターでの下卑た笑いと――
殺される直前に吐き捨てられた、氷のような冷酷な声。
そして脳裏には、血の味と割れた肋骨や砕かれた顔の骨の痛みが蘇っていた。
朝倉智和。
そうだ、俺はコイツに殺された。
殺されたんだよ……っ!
机の下で握る拳に力が入る。
自然と殺意が湧き出てくる。
だけどダメだ。
一回落ち着かないと。
ここは間違いなく俺が死ぬ前の過去。
13年前の嶺翠高校の教室だ。
おそらく死ぬ前の走馬灯が見せた景色だと思うが、それを確信できる証拠もない。
全てを確かめるまでは、冷静にいかないと。
「ああ。頑張ろうな」
俺が必死に作った笑顔でそう返すと朝倉は満足したようで、俺に片手を軽く挙げ、自分の席に戻っていった。
「……はぁ」
朝倉が席についてすぐ、俺は一息つく。
そして周りを見渡した。
教室は、静かにざわついている。
初日特有の緊張と期待。
未来を信じて疑わない眼差しが、そこらじゅうに満ちていた。
ああ、そうだった。
俺も昔は、ああいう目をしてたな。
俺はふと机の上に置かれたスマートフォンに視線を落とす。
薄く傷のついた保護フィルム。
そのヒビの形まで、見覚えがある。
たしかにこれは間違いなく自分のスマホ。
俺は指先が震えるのを押し殺して、ロック画面を開いた。
【20XX年4月6日 8:42】
その数字を見た瞬間、心臓がひとつ大きく跳ね、トクトクと高速に脈が打つ。
入学式の日。
俺が嶺翠高校に入学した、まさにその日付だ。
本当に戻ってきたってのか?
十年前のあの日に。
教室の雑踏も、スマホを持つ手の感触も、喉から飛び出そうなほどに強く弾ける拍動も、
全てがリアル。
これが夢だなんて、到底思えない。
そして記憶に焼きついた地獄の未来。
あの結末を、もう一度たどれというのか?
……冗談じゃない。
朝倉に脅され、暴力に屈し、母の治療費を人質にされながら這いずるように生きた数年間。
その終着点が死だった。
やっぱり俺は戻ってきたんだ。
過去の記憶を持ったまま、13年前の今日に。
そして今、俺はそのスタートラインにいる。
だったらどうする?
もう一度、この地獄を歩むのか?
いや――
二度とごめんだ。
俺は朝倉智和を許さない。
笑顔で近づき、友人を装い、俺を利用し尽くして踏みにじったこの男を。
あの日の奥にいた影鳳會の連中もだ。
直接、手は下さない裏の支配者。
アイツらがいる限り、学園都市に平穏は訪れないだろう。
朝倉、お前は俺の手で終わらせる。
そしてその奥にいる奴ら……アイツらの正体も一人残さず暴いてやる。
この二度目の人生、俺は復讐のためだけに生きる。
奪われたものは全部奪い返すんだ。
スマホを伏せ、俺は深く呼吸を整えた。
周囲の生徒たちは誰ひとり、この異常な環境に気づきもしない。
まぁ無理もない。
誰だって、今日が人生の始まりだと信じて疑わないのだから。
だが俺は知っている。
卒業しても続く階級差、クラスがすべてを決める社会の残酷さ。
そして笑顔の裏で牙を隠す都市上層部の者たちの存在を。
すると隣の席に、誰かが静かに腰を下ろした。
視界の端で、その仕草だけが妙に鮮明に映った。
振り向かなくても分かる。
七瀬陽菜。
かつて俺を気にかけてくれていた、唯一の人間。
下を向くどころか、彼女は元気いっぱいに机へ教科書を広げ、シャーペンをくるくる回していた。
動きは落ち着きがないのに、不思議と整って見える。
十年前と同じだ。眩しいくらいに明るい。
「……あれ? もしかして私のこと見てた?」
ぱっとこちらを振り返り、小首を傾げる。
声音は、記憶よりもさらに弾んでいて、鈴のように澄んでいた。
「いや……きょ、今日からよろしく、って」
「うんっ! こちらこそ! 隣の席だし、いっぱい頼っちゃうかも!」
笑顔。
ただそれだけで、胸の奥に冷たい痛みと温い懐かしさが同時に広がる。
十年後、彼女は朝倉の物になる。
……虚言かもしれない。妄言かもしれない。
だけど三年間でAクラスまで上り詰めたのは、朝倉と七瀬の二人だけ。
その事実が、朝倉が七瀬の弱みを握っていた可能性を裏付けている。
「次は俺が守らないと、な」
唇が勝手に動き、小さく声になった。
「ん? なにか言った?」
にこにこと笑う七瀬と目が合う。
疑いを知らない、真っ直ぐな瞳。
ああ、これだ。
これが七瀬陽菜だ。
在学時代、彼女はAクラスに昇格した後も、変わらず誰にでも声をかけ、励まし、笑っていた。
その分け隔てのなさこそが、彼女の魅力。
俺は、そんな七瀬に惹かれていたのかもしれない。
だからこそ、彼女の自由を奪った朝倉が許せなかった。
今度こそ――。
七瀬と目を合わせたまま、俺は心の奥に誓いを刻みつけた。
そこへ、教室のドアが勢いよく開く。
ざわついていた教室が、波が引くように静まる。
「……失礼する」
入ってきたのは、鋭い眼光の中年男性だった。
黒縁眼鏡に皺ひとつないスーツ。
背筋はピンと伸びており、教壇に立つ姿には一切の隙がない。
「本日より担任を務める、伏見だ。科目は数学だが、その前に……まずはこの学園都市における最も重要なルールについて説明しておく」
低く、よく通る声が教室全体を支配する。
周囲の生徒たちが自然と背筋を伸ばした。
「凰嶺学園都市において、成績評価は単なるテストの点数ではない」
伏見は淡々と続ける。
「人格、行動、信頼性。あらゆる要素がスコアとして記録され、定期的な試験によって数値化される。そしてそのスコアによって、君たちの居場所も、将来も、決まる」
生徒たちの表情が、少しずつ硬くなっていく。
「授業態度、校内での過ごし方、テストの点数、部活動での貢献……どれもスコアの対象だ。その総合値により三ヶ月ごとにクラス再編が行われるんだ」
教室内がざわついた。
「三ヶ月に一回も?」
「それだけありゃ、Aクラスも夢じゃねぇ!」
「でも……逆に降格しちゃう可能性も高いんだよね」
そう、三ヶ月に一度。
だが、昇格も降格も容赦なく繰り返される地獄。
「もちろん降格もありえるが、お前たちは底辺のDクラスだ。這い上がる機会が多いことを喜ぶべきだろう」
伏見の口元がわずかに吊り上がる。
「だが……クラスが変わるということは、それだけ周囲の環境も変わる。その中で新しい人間関係を構築しつつ、スコアまで上げていくとなると、その難しさは計り知れないだろう……」
そりゃそうだ。
入学日にこんな現実的な話を聞いて、不安にならない生徒はいない。
「おっと、すまない。今すべき話じゃなかった」
伏見先生はフッと穏やかに笑ってみせたのち、
「君たちには来週行われる、特別試験に専念してもらわないとだからな」
さらに場が凍りつくような発言をした。
やはり……。
ここまでの流れも十年前と同じ。
こりゃ本気で認めるしかないな。
俺は正真正銘、過去の世界にやって来たんだと。
「詳細な試験内容については今日の放課後、正式にメールにて通達される。試験までの一週間、君たちがどう過ごすか、じっくり観察させてもらうよ」
伏見の不気味な笑みが、十年前の記憶と重なる。
そう――この日を境に、俺は地獄に足を踏み入れたのだ。
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