Study days(2)
水滴の落ちる音が規則的に鳴り続けている。
窓に差し込む光の明度が増すごとに、静寂に包まれていた宿舎の空気に喧騒の気配が混じっていった。油に浮かべた紙に浸潤する染みのように、不規則に、不均一に、人の営みによって空気は流れる。
だからというわけではないのだろうが――共用洗面所を満たした沈黙も、そう長続きはしなかった。
「エリンナ」
キリアの声音は、先ほどエフリエッタに語り掛けたのと変わらない調子のままだった。率直な物言いから直情的なように思われがちな彼女だが、感情のコントロールなら自分よりもずっと上手くこなせることをエフリエッタは知っていた。冷静且つ俯瞰的に物事を観察することができるキリアを誰もが評価しているし、集団で行動することが多い探索者としては重宝される素養であろう。
そんな彼女に名前を呼ばれて、洗面所の出入り口に立ち塞がるように佇む黒髪の少女——エリンナは鋭い眼光でキリアを見上げた。
「エリンナ、そこに居られると通れないわ」
「それは私も同じだ。お前がどけばいい」
間を置かず返したエリンナに、キリアは一瞬頭を抱える素振りをみせたが、すぐに気を取り直したように続ける。
「普通、出て行く方が優先じゃないかしら」
「そんなルールはない。ほら、さっさとどけ。時間の無駄なんだよ」
目にかかる黒髪の隙間から覗く眉は、苛立たしげに歪んでいた。嘆息するキリアを睨む少女の瞳は、単なるルームメイトに向けるようなものとは到底思えないものであった。
エフリエッタからすれば、その表情と、今のほんの短いやり取りだけで、彼女らの関係性を察するには十分であった――ぴんと張った空気を浅く吸い込み、そのまま喉を鳴らして飲み込む。
(いつものことさ)
イングリッドが苦笑いを浮かべて小さく肩をすくめた。
(この二人が同じ部屋で寝てるの? やばいね)
無言のまま向かい合う二人の少女に、呆れ半分、そして残り半分は期待を込めた眼差しを向ける。果たしてどちらから仕掛けるのか、と。
それなりに気性の荒い者が多い探索者同士、殴り合いの喧嘩に発展することはそう珍しくはない。暴力という単純な手段で、主義主張の違いを解決しようとする探索者を野蛮だと非難する声もあるが……――手っ取り早く、尚且つわかりやすい方法はエフリエッタも嫌いではなかった。少なくとも今のエフリエッタとサラのように、同じ空間に居るにも関わらず言葉すら交わさないで時間が過ぎていくよりはずっと。
(ねぇイングリッド、どっちが強いの?)
(五分五分かな。身体ひとつで殴り合うならキリアに分があるが、何でもありの勝負になればエリンナもかなりやる)
(へー)
座学でも実技においてでも、訓練生としてはトップクラスの成績を維持していることで知られるキリアとエリンナであるが。
彼女らの境遇は対照的であった。
キリアは古くからハイマットに名を連ねる議員の家系に生まれた娘であり、それなりに恵まれた生活を送ってきたという。他者を思いやれるだけ余裕があり、少しでもシェルターの役に立ちたいと探索者を志望した高潔さも持ち合わせている。
一方でエリンナはハイマット出身ではない。
遠く離れたシェルターから避難してきた異民族なのだと、誰かが噂していたのを耳に挟んだことがある。
各地に存在する小規模なシェルターが生活拠点としての機能を失うことは、そう珍しいことではない。人口増加に伴う食糧難や資源不足と、それに続くシェルター内の治安悪化により内部崩壊を起こす場合。または大気中のエーテル濃度を調整する浄化装置の寿命が尽きたことで、人間が生きていける環境ではなくなった場合。あるいは増加した結晶生物の駆除が追い付かずに、シェルターを防衛できなくなった場合。
いずれにしてもエリンナの故郷は崩壊し、彼女もまた他のシェルターへの移住を余儀なくされたのだろう。
ハイマットではあまり見かけない、黒い髪と瞳は深い渓谷を思わせ、こちらから踏み入ることを拒絶するように、暗い。
エフリエッタが彼女と最初に言葉を交わしたのは、およそ一年前の探索者訓練校に入学したての頃だった。そして、それ以来一度も話していない。
「いい加減その性格直したら? 一人で何でもできるつもりでいるなら、はっきり言ってあげる。早死にするわよ、あんた」
「群れなきゃ何もできない臆病者。一日中私から逃げ回ってるくせに、取り巻きの前でだけは立派な態度だな。ハイマットの政治家はみんなそうなのか?」
「あら、一人が好きなんでしょ? 私のせっかくの気遣いも辛気くさい田舎者には通じなかったのかしら」
「なんだと」
「なによ」
鼻先が触れそうなほどに距離を詰め合い、互いの呼気が混ざる様子をエフリエッタは固唾を呑んで見守っている――
と、睨み合って数呼吸の間。先に上体を引いたのはキリアの方だった。拳を解いて首を横に振る。
「いいわ、朝から余計な体力を使いたくないし。あんたの言う通り、ここでおっ始めても時間の無駄だもの」
彼女は一歩下がり、エリンナに道を譲った。
「でもね、エリンナ。探索者として長生きしたいなら、少しは協調する姿勢を見せなさい。それがたとえ自分にとって度し難い、クソを喰らわせたいくらい嫌な相手であったとしても」
その言葉を受けても、エリンナの表情は微動だにしなかった。
キリアを一瞥した彼女は、堂々とした歩調でイングリッドの横を通り過ぎ、そしてエフリエッタの前で止まった。
目が合う。
首を傾げたエフリエッタに向かって、彼女は鼻を鳴らし、唇を歪めた。
「なんだ。お前もいたのか、落ちこぼれ。小銭欲しさに仲間を危険に晒した奴が、よく恥ずかしげもなく顔を晒せるものだな」
まさか自分に矛先が向くとは予想していなかったエフリエッタは、突然の罵倒に目を見開いた。
「え、えっと……」
返答に迷っている間に、エリンナはゆったりと視線を巡らせ、洗面台の蛇口を捻った。
勢いよく流れる水の音が途切れた会話の間を埋める。やがてエフリエッタが口を開きかけたのと同時に、吐き捨てるような口調でエリンナが言ってきた。
「お前が、あの英雄フレルセの娘だなんて信じられない」
「……どういう意味?」
「向いてないってことだよ。たった一羽の小鳥相手にろくな対処もできず、ケラレク先生の手を煩わせたような奴が探索者になろうなんて。いい機会だ。さっさと退校届けを出して畑でも耕していた方が、よっぽどシェルターのためになる」
「おい、もういいだろう、エリンナ。それくらいに……」
二人の間に入ろうとしたイングリッドを腕で制し、エフリエッタは顔面を引きつらせ叫んだ。
「なんでそこまで言われなきゃならないの!?」
声が裏返るが、気にせず続ける。
「確かにサラには悪いことしたけど、エリンナには関係ないじゃん!」
「あるさ。今後の野外訓練はランダムにチーム分けされるんだ。もしお前と組まされでもしてみろ。そこの正義面した女の言うことに従って協調なんざしたところで、足を引っ張られる未来が目に見えている」
「そんなの……!」
濡れた手で前髪を掻き分けながら、エリンナは振り返った。おそらく何気ない動作だったのだろう。だが露わになった彼女の額を見て息を吞んだ。
額に走る大きな傷跡。前髪に隠れていたせいで気づかなかったが、こうしてみれば随分と目立つ傷痕だった。
返そうとした言葉は勢いを削がれ、うめき声に変わって虚空に消える。
エフリエッタの反応があまりにもわかりやすかったせいか。一瞬怪訝そうに目を細めたエリンナは、すぐに自分の失態を気づいたように舌を打ち、顔を背けた。
「……足手まといはいらない。お前も、お前の陰に隠れて泣き喚いていたとかいう軟弱者も、くだらない理想を掲げる平和ボケした連中もな」
〇〇〇
「あームカつくムカつく! なんなのよ! キリア、相性とかそんな次元の話じゃないよ。あんなの、ただの性格破綻者じゃん!」
食堂に続く扉は、思っていた以上に乱暴な音を響かせて開いた。
まだ空いている時間帯とはいえ、ちらほらと食事を摂る訓練生の姿がある。
穏やかな朝食の時間を騒音によって邪魔された、彼らの非難するような視線が一斉にこちらに向くが、それすら目に入らず、エフリエッタはずかずかと床を踏みしめながら食堂の中央まで進んだ。
勢いのまま近くの椅子に腰を下ろすと、机の上に置かれていた食器が小さく跳ね、調味料の容器がテーブルの上を転がった。
対面に腰を下ろしたキリアがそれを元に戻し、苦笑を浮かべる。
「ん……まぁ、そうね。あいつが私以外にあそこまで言うのは久しぶりに見たけど」
「もう……! 朝から最低の気分だよ!」
頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。結局寝癖を整えないまま洗面所を飛び出す羽目になったせいで、ただでさえも鳥の巣と称される赤毛は酷い様相を呈していたが、最早そんなことも気にならない。
あるいはエリンナの意見が的外れなものであれば、これほど腹を立てることもなかったのだろう。彼女は見事にエフリエッタの図星を突いた。
野外訓練でのやらかしと、サラのことは言わずもがな。
英雄の名を冠する母親と同じ道を進もうとすれば、否応なしに比較はされる。周りが自分をどう評価しているか知ろうとしなくても、耳には入ってきてしまう。
信念があるといえば嘘になる。きっと他の訓練生が抱くほどの情熱も持ち合わせてはいないだろう。
それでも。
大して喋ったこともない相手からそれを指摘されたとなれば、癇にも触る。
自分勝手であることはエフリエッタ自身が一番理解してはいるが。
「そうやって怒る元気があるなら心配はいらなさそうだ」
と、三人分の配給食を乗せたトレイを両手に抱えたイングリッドがテーブルに合流する。
トレイの上では湯気を立てるスープの香りがカップから立ちのぼり、ほのかに焦げたパンの匂いが漂う。彼女は空いていた席に腰を下ろすと、湯気の向こうからこちらを見つめ、穏やかに眉を上げた。
「もしエリンナの相手が繊細な子だったらと思うとぞっとするよ。きっと立ち直れずに訓練校を去ることになっていただろうからな」
「それフォローになってないから。遠回しにわたしのこと図太いって言ってるのと同じだから」
「違うのか?」
「ちが……え、わたしってそう思われてるの?」
神妙につぶやくエフリエッタをよそにイングリッドは淡々とパンを割き、口に運んだ。
キリアが肩をすくめながら言ってくる。
「褒め言葉として受け取っておきなさい。探索者には必要な素質よ」
「むむ……」
それで納得できたと言えば嘘になる。それでも膨らませた頬から空気を吐き出し頷いてみせると、キリアの白い腕が伸びてきて頭を撫でられた。
子供扱いされているようでくすぐったいが、悪い気はしない。指先が髪を梳くたび、エフリエッタの興奮は落ち着いていった。
「ほら、朝からエネルギー使ったんだから、しっかり食べて」
「うん…………ねぇ、キリア。次にあんなこと言われたら、あいつのこと殴っていいよね」
「それもまた、元気があってよろしい」
三人のやり取りの間にも食堂には少しずつ活気が満ちていく。
探索者訓練校のありふれた一日はこうして始まりを迎えた。
クリスタルイーター 颯々うみ @zazanza_umi
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