Study days(1)

 ハイマット・シェルターがいかに外界と隔絶された空間といえど、それを窮屈に思うかと問われれば、決してそうではないと答える人間が大多数を占めるであろう。

 その巨大な外観に違わず、シェルター内部は広大である。

 農作畜産地区があり、工業区画があり、複数からなる居住ブロックにはそれぞれ学校や市場、公共施設が設けられ、生きていくのに不自由することはない。

 労働はシェルターそのものの機能や、その中で暮らすための社会構造を維持するために行われ、余暇を過ごすための娯楽もそれなりにはある。住民たちはここで生活のほぼ全てを完結させている。

 あるいは人生すらも。

 外敵に怯えることも飢えの心配をすることもない、安寧の保障された都市。

 シェルターの中での生活こそ日常であり、十分すぎる世界の広がりであるが――それを退屈と感じ、日を追うごとに増す、解消しようのない熱量を持て余す者がいるのもまた事実ではあった。


 生まれて十三年、外の世界を知らぬエフリエッタが敢えて探索者という危険な道を歩もうとしたのも、心のどこかで似たような焦燥が燻っていたからなのかもしれない。


 これまで、あまり自覚することはなかった。

 シェルターの中だけで生涯を終える大衆とは違う、特別な存在になりたいという欲は確かにあった。その最も手っ取り早い手段が、探索者の道であることは疑っていなかったが。


 少なくとも、鏡に映った表情は普段と何も変わらなかった――有り得ないほど絡まって暴れ回る寝癖も、それを両手で押さえつける姿の滑稽さも。


(全然可愛くない)


 元々癖のある髪がその程度で収まるはずがないのは、物心がついた頃にはすでに理解していたことではあった。

 「鳥の巣」や「もじゃもじゃ頭」などと、からかわれることには慣れっこであるが、エフリエッタは毎朝こうしてささやかな抵抗を続けている。


(はぁぁ)


 大げさに、しかし声には出さないようため息をついて、洗面台から上半身を離す。

 一日の始まりを憂鬱な気分で迎えるのは、何も今日に限った話ではない。

 無論、髪質のことが気にならないといえば嘘になるが、それが今さらエフリエッタの感情に刺さるほど鋭利なはずもなかった――二人分の歯ブラシと洗顔用品が丁寧に並べられた棚に手を伸ばしかけて、もう一度鏡を見やる。改めて見返しても何も変わらない、寝起きの自分。

 ここ一、二週間で明確に変化があったのは、部屋の空気の方だった。


(相部屋の悪いとこだよなぁ。いつもなら全然気にならないのに)


 鏡越しに見る部屋は、手狭なものだった。

 宿舎の部屋を全部見て回ったわけではないが、きっとどこもこんなものだろう。

 下手をすればひとりでも窮屈に感じるだろう空間に、机とクローゼットが二つずつ押し込まれ、その反対側の壁に張り付くように二段ベッドが置かれている。

 私物を置くスペースなどない――厳密に言えば全くないわけではないが、それでもちょっとした小物に限られる。ただでさえ、教材や銃器でかさ張るのだから、化粧品やアクセサリーの保管場所にまで気を回す余裕はない。ならば、初めから所持していない方が楽ではある。

 エフリエッタとサラ。年ごろの女子二人が住んでいるというのに、この部屋には色気というものが存在していなかった。


 きっとどの部屋もこんなものなのだろう――

 窓際に申しわけ程度に備え付けられた洗面台は、お洒落をするためではなく必要最低限の身だしなみを整えるためだけの機能しか有していなかった。

 当然、温かいお湯など出ない。

 

 ただそれらの恒常的に存在する問題は些細なことだった。

 エフリエッタが目下に抱える、ルームメイトとの間に生まれた、ちょっとした軋轢に比べれば。


 歯ブラシを手に取り、音を立てないよう慎重に机とベッドの隙間を縫って、部屋の出入り口に向かって移動する。

 朝というには薄暗いが、明かりをつけるのは憚られた。

 サラはまだ起きてこない。もしかしたら目を覚ましているのかもしれないし、エフリエッタが出て行くのをベッドの中で待っているのかもしれない。とてもではないが、それを確かめる気にはなれなかった。そんなことをしても、二人の仲を修復するきっかけになるとも思えない。


(部屋を変えてほしいなんて……言えないよね。悪いのはわたしなのにさ)


 扉をゆっくり、ある程度まで押し開けて――蝶番が軋みだす位置は把握している――するりと廊下に出たエフリエッタは再び大きく嘆息し、足早に共用の洗面所に向かった。


○○○


「呆れた。あんたたち、最近一緒にいないとは思ってたけど、まだ喧嘩なんてしてたわけ」

「キリア、そう言うな。価値観が全く一致する人間なんてどこにもいないんだから、どこかで衝突することくらいあるさ。私はむしろ、忌憚のない意見をぶつけ合ってこそ、真の友情が育まれると思っているけどな」

「あんたは脳筋過ぎ」


 洗面所には先客がいた。

 長い金髪を櫛で丁寧に整える、いつでも勝気な態度を崩さないキリア。一見すれば男と見紛うほどに長身で、短く髪を切り揃えたイングリッド。二人ともエフリエッタよりいくつか年上だったが、訓練生としては同じ時期に入学した同級生である。

 

 宿舎の共用設備なのだから、こうして誰かと出くわすことはよくある、自然なことだった。特に遠慮することなく、エフリエッタは歯ブラシを咥えて彼女たちの横に並んだ。


「喧嘩……喧嘩なのかな」


 少し考えてから、エフリエッタは曖昧に笑った。


「喧嘩ならヤグたちとしょっちゅうしてるけど、そんな感じじゃないんだ。野外訓練のあとからなんとなく気まずくなっちゃってさ。原因は多分、っていうか絶対……ほら、二人も知ってると思うけど」

「そりゃあ知ってるわよ。あんたのせいで先週は、朝から運動場を何十周もする羽目になったんだから」

「あれはいい鍛錬になったな。やはり基礎体力の向上は今後間違いなく必要になる。いっそ通常のカリキュラムに組み込んでもらえるよう、ケラレク先生に進言しようと思ってたところだ」

「絶対やめなさいよ!?」


 彼女たちも野外訓練には居合わせたはずだが、結晶生物の脅威を直接肌で感じなかった分、エフリエッタに対する態度は柔らかなものだった。「年下の問題児がまたやらかした」程度の認識でしかないのだろう。


(お姉ちゃんがいたら、こんな感じなんだろうな)


 イングリッドは言わずもがな、キリアもなんだかんだと文句を言いつつも、以前と変わらない態度でエフリエッタに接してくれている。訓練生たちからの非難の声がひとつも聞こえなかったと言えば嘘になるが、それらがすぐに収まったのは、年上の彼女たちが率先して朝の走り込みに参加したお陰かもしれない。


 彼女らの存在を有難く思う反面、それに甘え切ってしまうのはサラに対して不義理なことをしているようにも思えてしまう。だからといって、彼女にどう謝れば許してもらえるかもわからない。


(考え過ぎてもやもやする。こういうとき、二人ならどうするんだろ)


 歯を磨く手が止まっていたことに気づく。鏡に映る間抜けな顔を取り繕うように首を振り、そのまま横に目を向けた。

 視線がぶつかる。

 猫のようなキリアの瞳。


「……な、なに?」

「そうよねぇ」


 答えになってない返答を寄越しつつもこちらをじっと覗き込むキリアに、自分の浅はかさが見透かされているような気になり、エフリエッタはすぐに顔を逸らした。

 何か言いたそうな気配を隠そうとしない彼女を鏡で盗み見て、できるだけ時間をかけて口を濯ぐ。そしてゆっくりとタオルで顔を拭き終わると、それを見計らってか、キリアはすぐさま先ほどの続きを切り出した。

 

「とりあえずさぁ」

「う、うん」

「謝ってみたら?」

「……あー」

「え! まだ謝罪してなかったのか!?」


 予想していた通りの言葉に、うめく。素っ頓狂な声を上げたイングリッドを尻目にキリアは嘆息した。


「じゃなきゃ、平和主義のサラ相手にここまで引きずらないでしょ」

「うん……あれからずっと、話しかけるなって空気がすごくて。なかなか謝るタイミングが見つからず…………ハイ」

「あんたの度胸が足りなくて謝れないことをサラのせいにするんじゃないわよ。そんな空気は妄想よ、妄想。あんたが必要以上に引け目を感じてるせい。このままこれ以上長引くと、マジで拗れて面倒なことになるわよ」

「お前が言うと説得力があるな」

「うるさいっての。今は私の話は関係ないでしょうが」

「もしかしてキリアもルームメイトと喧嘩したことあるの? って、そういえば二人とも部屋じゃなくて、わざわざここで支度してるんだね」

 

 共用の洗面所である以上、いつ誰と一緒になってもおかしくはないのだが、朝の支度は部屋で済ます者がほとんどであった。

 一応、着飾る必要の少ない訓練生の身分とはいえ、寝起き姿というのはできるだけ他人に見せたくないのが本音である。エフリエッタもできればしっかり髪を整えてから人前に出たいと思っていた。

 実際に探索者として長期間外界に行く機会を経れば、次第に吹っ切れていくのだろうが――


「私はスノリエ先輩と相部屋なんだが、彼女はほら、浄化教の信徒だろ。夜明けとともに起きて、お祈りを始めるのが習慣らしくてね。だからその間は邪魔にならないよう部屋の外で過ごしてるんだ。ランニングをしたり、今日みたいに早めに登校準備をしたりして」


 腕を組んで答えたイングリッドは涼しい顔をしていた。だがエフリエッタは、もし自分が彼女と同じ立場になったらと想像して眉根を寄せた。


「へぇ、スノリエ先輩ってそうなんだ……なんか大変そうだね」

「さすがに一年も経てば慣れたよ。ついでに規則正しく健康的な習慣まで身についたから、先輩には感謝してるくらいさ」

「うへぇ」


 折り合いはついているらしい。

 ハイマット・シェルターに浄化教なる集団が存在することは知ってはいたが、そこに属する知り合いがいないうえ、宗教や信仰について詳しくないエフリエッタからすれば、まったく未知の世界である。それに、なんとなく過激な噂を聞かないでもない。

 イングリッドは闊達なイメージそのままに微笑んで、バツの悪そうな表情を浮かべるキリアへと視線を移した。

 イングリッドとエフリエッタから注目を浴びた彼女は、額に当てた手を頬へ滑らせ、わざとらしく嘆息してみせた。斜め下に逸らした目線の意味が、床の上にできたシミを気にしてのことではないとすれば、「その話題を振るな」と暗に告げているのだろう。

 それを察しながらも、エフリエッタは彼女に向かって軽い調子で問いかけた。


「キリアは?」

「ちょっと。空気読みなさいよ」

「読んだ結果だもん。ねぇ、教えてよ。キリアのルームメイトって誰? なんで喧嘩したの? どうやったらそんなに髪の毛がつやつやになるの?」

「あんた、絶対面白がってるでしょ。…………はぁ、偉そうなこと言った手前、格好つかないから黙ってたのに」


 半目になってこちらを睨みつけてくる割に、キリアの語気はそう強いものではなく、エフリエッタは期待を込めた眼差しで続きを待った。


「別に、あんたとサラみたいに気まずくなってるわけでもないし、殴り合いの喧嘩をしてるってわけでもないわよ。だけど……仲は悪いわね。悪すぎて、逆にお互いに何を考えているのかわかるくらい悪い。キッカケがあったのかもしれないけど、もう覚えてない。でもあいつとは徹底的に合わないのよ。相性的に、性格的に、根本的にね」


 勝気なキリアにすれば珍しく――少し眉を下げ、苦笑とともに肩をすくめて、つぶやく。


「ふぅん」


 エフリエッタの相槌で会話が途切れる。区切りがついたわけではない。キリアは逡巡しているようだった。彼女の口が半分だけ開き、また閉じかけて、開く。


 結局彼女は——


「……だからまぁ、あんたの仲直りの参考になるような話じゃないってこと。はい、おしまい」


 一方的に告げて踵を返した。イングリッドがやれやれといった様子でそれに続く。エフリエッタは口を尖らせて二人の背中を追った。

 まだ寝癖を整えていなかったが、もはやシャワーを浴びたほうが早いだろうと、心の中でため息をつきながら。


「そこまで言ったのに?」

「本当に、わざわざ言うまでもない、面白くもなんともない話なの。ほら、もう行くわよ。他の子たちもそろそろ起きてくるから――」


 言いかけて、唐突にキリアが立ち止まった。ちょうど洗面所に入ってこようとした誰かとぶつかりそうになったようだが――それ自体は不自然でもなんでもない。ただその後の硬直が、沈黙が、やけに長いように思えて、エフリエッタはイングリッドの背中からひょっこりと顔を覗かせた。


 キリアと向かい合うようにして立つ、少女がいた。同じ宿舎で過ごしている以上、その姿には当然見覚えがあった。というより、同じ授業を受けている同級生なのだから、エフリエッタが知らないはずがない。


 不可解だったのはキリアと、向かい合う少女の両方が、相手に道を譲らず立ち尽くしていることだった。

 その姿に、なんとはなしに不穏なものを感じ取ったエフリエッタは、イングリッドの腕を指でつつき囁く。


「……ねぇ、もしかして」


 彼女はエフリエッタの身長に合わせて少しだけ上体を屈め、耳元で告げた。


「うん、あの子がキリアのルームメイトだ」

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