エフリエッタ(2)
軌道を視界で捉えたわけではない。ただ本能的にサラの頭を抱きかかえて地面に伏せた。
頭上を通り過ぎた暴力的な風切り音に後頭部が削がれずに済んだとすれば、それは間違いなく偶然に過ぎない。だが少なくとも、今もまだ防護服に食い込む小石の感触を肌に感じることはできる。
エフリエッタはサラを抱きしめたまま地面を転がり、弾かれたように体を起こした。ホルスターから取り出した拳銃をがむしゃらに構える。
鳥型の結晶生物による攻撃がどのようなものであれ、目で見ることもせずに避け続けられるはずもない。急激な回旋運動による首筋の痛みを無視して、左右に視線を走らせる。
(……いない!)
結晶鳥の姿は目に見える範囲にはなく、しかし直線上に切り裂かれた霧の軌跡を追って背後に向き直った。
風が吹き抜ける音がする。
その流れに逆らって銃身を持ち上げた。
次の瞬間、轟音とともに石壁が弾け飛んだ。
建物の外壁を紙同然に突き破り、翡翠の閃光が一直線に走る。
その軌跡は止まることなく、奥の壁をも穿ち抜き、さらにその奥へと消えていった。
瓦礫の破片が雨のように降り注ぐ中、エフリエッタは反射的に身を伏せる。
「うわわわわわっ!?」
理解が追いつく前に、再び別の角度から轟音が響いた。
結晶鳥は跳弾のように直線的な飛翔を繰り返し、建物や木々に無数の穴を開けていく。
目で追えたのは残像でしかない。ましてマスクで狭まった視界では。
エフリエッタは虚空に向けて、でたらめに引き金を絞った。銃身の内部で淡い光が膨らみ、唸るような低い音が空気を震わせる。
一拍置いて、コバルトブルーの弾丸が閃光を撒き散らしながら射出された。
瓦礫を抉り、霧を吹き飛ばす――が、肝心の標的を撃ち抜いた手応えはどこにもない。
「当ったんない!」
何度撃っても結果は同じだった。
焦燥が声になったその刹那、すぐ横の地面が爆ぜ、鋭い衝撃波が身体を打ちつける。
防護服の肩がインナーごと裂け、素肌が露わになった。ぞっとした心地で、まだ無事な左半身を支えに地面を這い、立ち上がり、駆ける。
「エフリエッタ!」
「わたしはいいから、早く逃げて!」
穴だらけの柱を背にして、砂塵の向こうに消えたサラに叫び返す。彼女もひとまず生きてはいるようだが、もはやその安否を気にする余裕はエフリエッタにはなかった。
土煙と濃霧が混ざり合い視界は霞む。足りない酸素を取り込もうと喘ぐように呼吸を繰り返し、肋骨の軋む不快感に顔をしかめた。
背中に柱があったとして、それが遮蔽物の役割を果たしてくれるかと言われれば決してそうではない。少なくとも石壁を貫いてもなお減速することのない結晶鳥の飛翔進路を制限することはできない。
それでもエフリエッタは半ばやけくそ気味に正面に銃口を向けた。視覚での察知が間に合わない以上、取れる選択肢はそう多くない。勘すら頼りにしなければならないほどに。
分の悪い賭けだ。そもそも、ここまで無傷でいられていることが冗談のようにも思える。
それでも感覚を研ぎ澄ませれば、予兆くらいは捉えられるかもしれない。
踏みしめる砂利の輪郭。露出した肌を撫でる大気の温度。エーテルの流れゆく方角。
(きた――!)
ひ、と鋭利に空気が歪む。
真正面。軌道はエフリエッタの直線上。
タイミングを計ったわけではない。ただ愚直に引き金を絞った。
一発。当たらない。
二発。羽の先を掠める。僅かに軌道が逸れる。
三発――指に返ってきた感触は、あまりにも軽い。
(弾切れ!?)
沈黙する銃口。
予備の弾倉はある。
が、再装填の時間はなかった。
思考が薄く引き伸ばされる。
予感ではなく、明確な事実としての死が迫る。
と、
「――自分よりも速度の勝る敵を堕とすつもりならば」
竜巻のように舞い上がるエーテルの中に突如、響き渡る声。凍りついた大気よりも鋭く、冷たい。
左耳が捉えた低い振動から身をよじるように、エフリエッタは大地を蹴った。
「点ではなく面で捉えろと、そう教えたはずだが。エフリエッタ」
直後、目の前を横殴りの光が奔流する。
放たれた光線は視界を遮るエーテルもろとも空間を薙ぎ、そこへ突入してきた結晶鳥を飲み込んて爆ぜた。
結晶の翼が砕け散る。残像ごと押し潰され、粉砕音を響かせながら地へ叩き落とされた。
余韻とともに光の尾が漂い、やがて静寂が訪れる。
エフリエッタは尻餅をついたまま、瓦礫に散らばる結晶鳥の残骸を呆然と眺めていた。
( ……生きてる)
目を瞬かせ、そして自分の体にぺたぺたと触れていく。あちこち擦り切れた防護服から覗いた素肌に汗が滲んでいた。傷はなく、呼吸にも問題はない。マスクのフィルターは取り込んだエーテルをしっかりと濾過し続けている。
ほんの短い時間とはいえ、これほどの破壊を生んだ戦闘を無傷で終えられたのは、決してエフリエッタの実力などではなく。
「生きてる」
砂塵が晴れようとも、濃霧は変わらずありつづける。ともすれば息づかいすら遮るエーテルの幕から姿を現したのは、今エフリエッタがもっとも顔を合わせたくない人物である。
「聞いているか」
「……はい、ケラレク先生」
小銃を肩に担ぎ、颯然として大地を踏むブーツの音。
「負傷は」
「ありません」
「ならばさっさと立て。敵が一体とは限らん。呆けている暇があるのなら周囲の状況確認を済ませろ」
「はい」
「それから肌の露出箇所には布を当てておけ」
彼女の声音が普段と変わらないことに、エフリエッタはむしろ恐怖を覚えていた。ぴんと伸びた背筋もレンズ越し覗く眉の角度も、なにもかもが峻峭な彼女を表す記号のように思えてしまう。
「先生、サラは」
立ち上がりながらおずおずと尋ねる。
目視できる範囲にサラがいないことが気がかりだった。うまく逃げられただろうか、それとも――
「すでに安全な位置まで下がらせている。もっとも、この世界のどこにそんな場所があるかは甚だ疑問だが」
そうつぶやいて踵を返したケラレクを追いながら、エフリエッタは内心で胸を撫で下ろした。サラが生きていて良かったと思うのと同時に、申し訳ない気持ちも湧いてくる。
身体の半分を失い動かなくなった結晶鳥を横目に流していく。あそこに倒れているのが自分や友人でなかったのは、ただ運が良かっただけだった。
再び静謐さを取り戻した、もはや見る影もない教会の建物。
ここにどんな信仰があったかなど知る由もないが、エフリエッタは名前も知らない神様に胸中で感謝を伝え――ケラレクが手からぶら下げている、ひしゃげたカメラを目にして頭を抱えた。
「弁明は後ほど聞く」
「……はい」
隊列に戻ったエフリエッタに声をかける者はいなかった。
こちらを盗み見るような視線を感じてはいたものの、エフリエッタは誰とも目を合わせないよう顔を伏せ粛々と歩き続けた。
道と呼べるほどのものではない。木の根が隆起し砕けた石畳は、疲労した脚に追い打ちをかけるように歩幅を乱す。この地に人の手が介在したのはどれほど過去のことなのか、エフリエッタには想像もつかない。
サラはずっと後方にいる。彼女と生還の興奮を分かち合いうために振り向きたい気持ちを堪え続けている。ただケラレクがぴったりと横に張りついているせいで、今だけは模範的な訓練生を装う必要があった。
さすがの三馬鹿も、この状況で絡んでくるほど馬鹿ではないらしい。
(ばあちゃんの言う通りだったよ。外界の探索は命がけだね)
訓練を終えたあとのことを考えれば憂鬱さは増す一方だったが、得られた教訓があったことも事実だった。
教科書を読むより、動かない木の的を撃つより、たった一回の実戦はエフリエッタの記憶に強烈な感情を刻んだ。
死にかけて、死にかけた。自分の軽率さが招いた危機。結晶鳥に襲われた体験はしばらく夢に見そうだ。
(……サラに謝ろ。あんたが正しかったって)
彼女の臆病さの一割でもエフリエッタが持ち合わせていれば、たかだか小遣い程度の金額に釣られることもなかっただろうか。
ともかく、肩を落とすエフリエッタの視界が開けたのは、吸水性の限界を超えた下着の後始末について考えを巡らせていたときだった。
大気中を漂うエーテルの濃淡に変化があったわけではない――専用の機器を持たないエフリエッタには濃度の観測などできないが――これまで鬱蒼と生えていた木々が途切れ、重くのしかかっていた自然の天蓋が景色から消える。
「……帰ってきた」
時間にしてみれば半日にも満たない訓練ではあったが。
無意識につぶやいていた。
立ち止まる。あとに続く訓練生たちも足を止めたが、ケラレクはそれを咎めることはしなかった。
風が吹いている。うねるような風が。
強く意識はしていなかったが、出発するときもやはり同じような風が吹いていたような気がする。
ドーム型の建造物だった。
周囲の廃墟や木々が、玩具のように思えてしまうほどに巨大な。
半球の殻を地に伏せたような曲線の頂点は霧に霞み、両端は遥か稜線の向こうにある。まだ距離があるにも関わらず、すぐ目の前にあるように錯覚するほど大きく、目眩がするほどに白い外壁。
こうして外側から、自分たちの生まれ育った場所を望むのは生まれて初めてのことだった。
誰かが感嘆の息を漏らす。エフリエッタの頬もいつしか熱を帯びていた。
――ハイマット・シェルター
エーテルで満ちた世界に残された人類の城、白亜の檻。
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