クリスタルイーター

颯々うみ

エフリエッタ(1)

 冷えきった風が髪を削ぎ、吐息はきらきらと砕けて散った。光ではなく、結晶となった空気そのものが舞い上がっていく。

 エフリエッタは息を止めた。

 それが不要な行為であるとはわかっていても、頭にこびりついた理屈が彼女にそうさせていた。

 再び風が吹くと、身体の周囲を漂う豆粒のような結晶は更に細かな粒子となり、大気に溶けて消える。それを見届けて、ようやく呼吸を再開した。

 

 翡翠を細かく砕いて散布したような霧が見渡すかぎりに立ちこめていた。まったく視界が利かないわけでもないが、だからといって気を抜けば容易く方向感覚を狂わせられる。

 それだけではない。霧の正体——可視化できるほどの濃度の高いエーテルは、どこをどう切り取っても人体にとって有害であった。呼吸器官や粘膜を外気に晒さないよう、キャニスターを取り付けたマスクで顔を覆わなければならない程度には。

 百緑の景色は汚れたレンズ越しでもなければ幻想的に見えるのかもしれないが、マスクもヘルメットも、更にいえば防護服もなくシェルターの外を出歩くのは後先考えない愚か者か人生に絶望しきった自殺志願者くらいであろう。


(死に方なんていくらでも選べるのに)


 今どきそんな者はいないと思っていたが、毎年一定数はそうやって霧の中に消えていくらしい。

 馬鹿みたいだと思った。

 少なくとも、皮膚に食い込むほどきつくマスクのベルトを締めるエフリエッタには理解の及ばない行動であった。

 

「怖気づいたか、エフリエッタ」


 背後からかけられた声に、エフリエッタは小さく肩を震わせた。


「いいえ、先生」


 答えながら、いつの間にか足が止まっていたことに気づく。

 振り返ると、自分とお揃いのマスクと防護服に身を包んだ人々が列を成して、先に進むのを待っているようだった。

 自分に注がれる二十近い視線を受けて、エフリエッタは今が初の野外訓練の真っ最中であることを思い出していた。


 エフリエッタは慌てて歩みを再開しようとした――


「うわっ!?」


 と、不用意な重心移動についていけなかったつま先が足元の瓦礫に引っかかり、そのまま視界が傾いた。咄嗟に瓦礫を掴もうと伸ばした手は地面をなぞるに留まり、結局身体のあちこちをぶつけながら斜面を転がることになった。

 後ろから悲鳴と笑い声が上がる。

 鈍い痛みも忘れて羞恥心に気を取られそうになるが、直後に空気よりも冷たい感触が背筋を這い上がってくるのを自覚して、思わずマスクに覆われた顔を庇った。ヘルメットで守られた頭よりもむしろ、繊細なキャニスターとの接合部分を腕で覆いながら、二度三度と地面を転がった末に、ようやく身体の回転が止まる。


「大丈夫!?」


 駆け寄ってきた足音に手を挙げて応えつつ、エフリエッタはのろのろと上半身を起こす。


「ケガはない?」

「た、たぶん大丈夫。マスクも壊れてないっぽい」


 声が震えているのは、気温のせいだけではない。冷汗が肌を伝う。顔をしかめながら、荒くなった呼吸を少しずつ落ち着けていく。


「もう大丈夫。ありがとう、サラ」


 レンズを挟んで心配そうにこちらを覗き込む瞳。

 ここにいる全員が顔を隠し無個性な格好をしていたとしても、ある程度は立ち振舞いで見分けがつく。

 サラの腕を借りて立ち上がったエフリエッタは顔を伏せ、目線だけで周囲の様子をうかがった。

 

 一番近くにいるのはサラだ。彼女はエフリエッタの防護服が破れていないか背中をチェックしてくれている。元いた場所から一歩も動かずにこちらを指差しているのは、ヤグ、ジルラー、ドィの三馬鹿だろう。転んだエフリエッタを見て笑ったのはこの三人に違いない。

 そして腕を組み無言で佇んでいる、唯一の大人。今回の野外訓練で訓練生を引率する役目を務めるケラレクが、こちらを睨み冷たく言い放った。

 

「エフリエッタ、お前は今死んだぞ」


 彼女の声はマスク越しにも関わらず、隊列の端まではっきりと聴き取れるだけの明瞭さを備えている。

 「聞こえなかった」などという言い訳をさせないために、あえて意識して発声しているのだろう。


「……はい、先生」

「何を考えていたかは知らんが、先頭に立っているという自覚が足りん。シェルターの外ではほんの僅かな油断が命取りになる。傷口や呼吸器から体内に高濃度のエーテルが侵入すれば、それだけで人は死ぬ。お前がヘマをすれば、仲間も死ぬ。集中しろ……装備の破損は」

「ありません」

「背中も大丈夫みたいです」


 一通りエフリエッタの防護服を見終えたサラが答える。それに頷くでもなく、ケラレクはじろりと彼女へ目を向けた。


「サラ、お前もだ。怪我人の救護は当然行うべきだが、最優先事項ではなかった。エフリエッタに駆け寄る前にするべきことがあったはずだ。答えろ」

「は、はい……ええと、まずは呼びかけで安否確認をすること。それから二次被害を増やさないために地面のぬかるみや崩落の危険がないか、地形の確認をすることです」

「わたしは最優先事項と言ったぞ、サラ。お前は周囲の警戒を怠ったな。エフリエッタの転倒が敵の襲撃によるものではないとどうして言い切れる」


 淡々としたケラレクの言葉に、ほかの訓練生たちが今さらながらに四方へと小型の銃を構えた。

 エフリエッタは半目になって彼らを見やり、サラは腕を抱いて身を縮こませた。


「ごめんなさい」

「誰が謝れと言った。二人とも、帰ったら予防策と改善案をレポートにして提出しろ。今日中に」

「げぇ……」

「なにか言ったか、エフリエッタ」

「いいえ、ケラレク先生」


 慌てて表情を引き締める。マスクで隠れているからといって決して安心はできない。ケラレクは生徒たちのちょっとした変化にもよく気づき、考えていることはいつでもお見通しだ。

 冗談が通じた試しはなく、口答えなどもってのほかだった。射撃ならまだしも、座学の成績でいえば下から数えた方が早いエフリエッタにとって、彼女と接することは苦手以外のなにものでもない。

 だからこそ、三馬鹿がひそひそとこちらを見て笑っていたとしても、エフリエッタはなんとも思わなかった。自分に聞こえる程度の陰口にケラレクが気づかないはずがないとわかっていたから。


「ヤグ、ジルラー、ドィ! お前たちはエフリエッタの代わりに先頭に立て。それから五人には一週間、罰として宿舎のトイレ掃除をしてもらう。他の者も最後まで気を緩めるなよ。以上、訓練再開!」


 厳格ではあるが、平等だった。だから苦手意識をもっていたとしても、ケラレクのことを嫌う訓練生は誰一人としていない。


「お前のせいだぞ、もじゃもじゃ頭」

「さっさと進みなさいよ、三馬鹿」


 すれ違いざまに罵り合ったエフリエッタたちは、頭にケラレクのげんこつを喰らう羽目になったわけだが。



 その後の行軍は特に滞りなく進んだ。時折、ケラレクから叱咤が飛ぶことはあれど、歩みを止めるほどの問題が起きるわけでもない。

 そもそも今回の野外訓練は物資調達でも狩猟を目的としたものではない。まだ机上でしか学んでいない訓練生たちを外界に慣れさせるためのものだ。明確にそう言われてはないが、ちょっとしたお試し外出のようなものだとエフリエッタは解釈していた。


 訓練開始直後こそ、身につけた装備の重量に圧し潰されないよう気を張っていたが、一時間も経てば余所見をする余裕が出てくる。

 点在する倒壊した古い建物や、それらに寄生するように生えたエーテル結晶は最初こそ目を引いたが、それだけ。鬱蒼とした森と廃墟、それから翡翠色の霧ばかりの景色に変化はなく、まるで同じ場所をぐるぐると回っているような錯覚に陥る。

 前を歩くサラなどはずっと肩を強張らせているが、エフリエッタは先ほど転んだことも忘れて、またすぐに退屈さを持て余すようになっていた。


(なんか思ってたのと違うなぁ。外に出るってもっとすごいことかと思ってたや)


 無論、あくまでも最初の野外訓練だからこそ、エーテルが比較的薄く、外敵の少ない地域に探索範囲を留めていることは理解している。だが、これまで散々脅し文句のように教えられてきたことと、目の前に広がる静寂との落差に「がっかりしてしまった」のは仕方のないことなのかもしれない。


 エフリエッタは刺激に飢えていた。

 だからこそ目の前に現れた小さな変化は、急速に彼女の興味を引いた。


(ねぇ、サラ。ねぇってば)


 サラの背中をつつく。彼女は不意の呼びかけにびくりと跳ねたあと、前を向いたまま囁いた。


(エフリエッタ。また先生から怒られちゃうよ)

(へーきへーき。いくら先生でも、さすがにこの距離じゃ聞こえないって)


 視線を前方に向けると、隊列の先頭辺りを進むケラレクの姿がうっすらと見えた。最後尾にいるエフリエッタの声は、彼女のもとまでは届かないだろう。


(トイレならにしろって言われたよ)

(あのさぁ、そんなはしたない真似できるわけないじゃん。わたしたち、乙女だよ? そんなことより見て。アレ、結晶生物じゃない?)


 木々の切れ間を指差した方向に朽ちた建物がある。たしか教科書に載っていた、教会とかいう建造物だったはずだ。結晶に侵食され、ほとんど原型を留めぬ石像が野ざらしになっている。エフリエッタが見ていたのは、そこに止まる小さな鳥だった。

 家畜用の鳥なら見たことがある。しかし高濃度のエーテルが満ちる外界において生存している鳥が、通常の生命体であるはずがない。

 きらきら光る。

 結晶クリスタルの鳥。


 サラが息を呑む音が聞こえた。


(……なんでこんな浅いところに! はっ、離れなきゃ。ちがう、まずは先生に合図を――)

(ちょちょちょ、せめて写真! 写真撮らせて)

(なに言ってるの! 危ないよ!)

(だいじょーぶだいじょーぶ、刺激しなきゃ気づかれないって。結晶生物の写真は高く売れるんだよ。せっかくのチャンスなのにもったいないじゃん!)


 サラの静止も構わず、エフリエッタはカメラを取り出し構えた。こんなこともあろうかと、出発前にこっそりと忍ばせておいたのだ。

 当然、発覚すれば厳罰ものであるが。


(ねぇ! やめようよ、エフリエッタ!)

(フラッシュ点けなきゃ平気だって。あーもう、ちょっと、ぶれちゃうから離して――)


 肩に縋り付くサラを振りほどこうとして、勢いよく腕を挙げたその拍子に、エフリエッタの指からカメラが滑り落ちた。


「あっ」


 かしゃん、と。

 カメラが地面にぶつかった瞬間から、半呼吸の間を置いて。

 エフリエッタの視界に閃光が走った。

 目を瞑る。

 すでに二人から少し離れていた部隊にざわめきが広がり、ケラレクの怒声がそれを掻き消す。

 しかしエフリエッタの頭には罰則のことなど思い浮かびもしなかった。そんなことはどうでもいいことだった。


「やっ……ば」


 視界が閉じていたのは一瞬。ただその一瞬で状況が悪化したことを理解する。

 開いた瞼の奥で残像のように明滅する光の中で――目が合う。

 羽ばたくでも囀るでもなく、身体の重量に耐えるように佇んでいた結晶鳥が、エーテルの塊と化した眼球を二人に向けていた。

 無機質な双眸からは、意志も感情も読み取ることができないが――その生物の視野に入ってしまったという事実が、エフリエッタの顔面から血の気を失わせた。

 目が離せない。目を離した瞬間に終わってしまうと本能で理解してしまっていた。

 それほどにあの小さな存在は強烈に、鮮明に、エフリエッタが思いつく限り最悪のイメージを与えた。

 心臓が跳ね、引き攣るような悲鳴が肺から漏れる。心音が鼓膜を突き破りそうなほどに加速する。


 ――逃げなければ。

 転がったカメラも、背負った荷物も全て放り捨てて、一刻も早く。


 だというのに身体は硬直し、その場から動くことができずにいる。

 防護服の上からエフリエッタの腕を伝うサラの指。僅かな衣擦れの感触で、彼女が腰を抜かしたことを悟った。


「……逃げて」

「やだ」


 震える声に即答して。

 エフリエッタはサラに覆い被さった。

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