第05話 暴走魔獣
それは、突然の出来事だった。
――咆哮が、空気を裂いた。
「グオオオオオッ!」
まるで大地そのものが怒り狂っているかのような、震えるほどの轟音。
俺の鼓膜がビリビリと震え、視界の端が一瞬で揺らいだ。
空気が変わった。空気そのものが、獣の気配に飲まれていた。
広場のざわめきが止まる。
次の瞬間、張り詰めた沈黙を切り裂くように、悲鳴が炸裂した。
「な、なんだ!?」
「魔獣だ! 魔獣が出たぞ!!」
砕けた石壁の向こうから、黒い影が現れた。
漆黒の毛並み。狼を思わせる細身の身体――だが、首元には獅子のようなたてがみが揺れている。
その瞳はどす黒く滲んだ血のように赤く、まっすぐこちらを睨みつけていた。
口を開いたその顎には、鉄すら噛み砕けそうな牙が並んでいる。
唾液が地面に垂れ、じゅっ、と熱で蒸発する音すら聞こえた気がした。
あれは……魔物なんかじゃない。化け物だ。
俺の背中を、冷たいものがぞわっと這い上がってくる。
呼吸が浅くなった。
「ひっ、ひぃぃっ!」
「逃げろーー!!」
誰かの叫びを皮切りに、広場の群衆が一斉に弾け飛ぶように散った。
押し合いへし合い、誰かの肩をつかんででも逃げようとする人間の群れ。
転ぶ者、叫ぶ者、踏まれて泣く子ども。
阿鼻叫喚とはこのことだ。
けれど、それが『普通』の反応なのかもしれない。
だって、俺だって怖い。
魔獣が一歩、石畳を踏み鳴らすたびに地面が砕ける。
その度に砂煙が舞い、人々の視界を奪っていく。
衛兵もいるが、まったく役に立っていない。
剣を抜いたまま動けず、ただ震えていた。
鎧の隙間から滴る汗が、金属の表面に細い筋を作っている。
その様子が、無駄にリアルで、妙に印象に残ってしまった。
(……なんだよ。役立たずって、俺だけじゃなかったんだな)
皮肉が喉まで出かけて――飲み込む。
いや、そんなことどうでもいい。今は。
魔獣は、群衆にも衛兵にも目を向けない。
ただ一人。ある一点に、視線を固定していた。
――舞台の中央、そこにいたのはシンシア・フォン・アーデルハイト。
真紅のドレスを風に揺らし、あの舞台の中心に、たった一人で立っていた。
その姿勢は、さっきと何も変わっていなかった。
顎を引き、背筋を伸ばし、堂々と顔を上げて――彼女は、舞台を離れようとはしない。
……でも、それが勇気だなんて、簡単に言えなかった。
だって。
(……本当は、怖いはずだ)
心の奥で確信があった。
彼女だって恐怖を感じてる。あの魔獣を見て、何も思わないはずがない。
だけど、誰も助けない。
さっきまで「悪女」と面白がっていた群衆は、今や「見殺し」で済まそうとしている。
衛兵たちは剣を構えるふりだけして、後ろへじりじりと下がっている。
(……まじで、誰も動かないのかよ)
魔獣が一歩、また一歩と、舞台の中央へ近づいていく。
軋む木材の音が、やけに生々しく響いた。
低く唸るような声。涎が床に滴り、濡れた音を立てる。
その巨体が今にも飛びかかる準備をしているのが、分かった。
群衆は叫ぶ。
「誰か、助けて……!」
「逃げろ!」
けど、その声には――何の意味もなかった。
誰も助けに行かない。
彼女を守ろうとしない。
その『叫び』は、ただの自己満足だ。
そして、そこに立ち尽くす彼女。
シンシアは、もうすべてを諦めたように、目を閉じた。
(このままだと――あの子、死ぬ)
俺の心臓が、ぐっと跳ねた。
手足が震える。呼吸が荒くなって、頭がうまく回らない。
だけど、心の奥が――熱くなる。
あのときの俺と、彼女は同じだった。
見捨てられて、罵られて、何もできずに終わろうとしている。
違う、俺は、見ているだけじゃ、もういられない。
(誰かを助けたい)
その思いが、胸の奥で、はっきりと形を持った瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます