月夜の桜
Sora
第1話 月夜の桜
第一章 夜桜の記憶
子供の時に見た夜桜が、綺麗だったのを覚えている。
月光に照らされた道が、桃色に染まって。
黄色と桃色の世界に、自分だけ迷い込んで。
愛を囁く恋人達の声も。
鈴虫の愛の唄も。
世界から消えて。
音の無い、光と色だけの桃源郷。
当時はまだ幼かったが、それでも胸が高鳴った。
彼女と出会ったのは大学のキャンパスだった。
大学の食堂は、お昼時になると花見の席取りのように混み合う。
人混みが元々苦手だったのと、あまりの混み具合に嫌気がさした俺は、食堂を出て、売店でパンを買った。
そのまま外に出て、あちこち歩く。
そのまま大学の敷地内を歩いていたが、環境整備の一環として植えられていた桜に目が止まった。
正確に言えば、桜の樹に寄りかかる一人の女性に。
長い黒髪が風に揺蕩う。
時々、顔にかかる髪を手で払いながら、彼女は一人で本を読んでいた。
その光景は、絵画のように美しかった。
彼女は顔を上げて、俺の顔を見る。
俺がずっと見つめていたことに気がつくと、困ったように笑った。
一目惚れは、文学の外にもあった。
その後は彼女と話をしたはずだが、よく覚えていない。
ただ、彼女の読んでいた本は今でも覚えている。
梶井基次郎の『櫻の樹の下には』だった。
彼女も俺のことが気になっていたらしい。
何回か会ううちに、お互いに惹かれていった。同棲するようにもなり、体を重ねたのも一度や二度ではなかった。
体を重ね終わったあとは、彼女と必ず唇を重ねた。
何度も。何度も。
舌を絡めて。
終わった後の気だるさが、甘い刺激で満たされていく。
桜の香りが頭を痺れさせて。
体も、心も満たされて。
魂の渇きまで、潤うような気がした。
第二章 演出と疑惑
いつも気遣ってくれて、体調が悪い時には見舞いに来てくれるところ。犬よりは猫が好き。優しいところ。寂しがりなところ。少し嫉妬深いところ。おとなしくて引っ込み思案なところ。香水は桜の匂いがするものが好き。絵画が好きで、特に風景画をよく見ること。本の好みは純文学なところとか。俺は最初、そういう彼女の人間性に惹かれているのだと思っていた。
でも最近は違うように感じ始めていた。
たまに、彼女の視線を強く感じることがあった。獲物を逃すまいとする、獣のような視線を。
まるで、俺の魂を吸い尽くそうとする夢魔のような。
その視線を感じた時はいつも、妙に官能的な気分になる。そんな変な気分を誤魔化したくなって、体を動かして咳払いをしてしまう。その度に「どうしたの」と彼女によく笑われた。
あなたが今どんな気持ちか、わたし知っているの、と言われているような気がした。
何かあった?
何度かそう聞きたかったけど。
すぐに彼女から視線を逸らされるので、聞けずじまいだった。
それでも勇気を出して、一度だけ聞いたことがあった。
彼女の友達の一人が行方不明になったと、別の友達から聞かされたからだ。
彼氏がほしいと冗談で言ったのがきっかけで、喧嘩になったのだと。
その友達もその場にいたらしく、こう言っていた。
「彼女、やめておいた方がいいよ。その時の顔、本当に怖かったんだ。今までの彼女、もしかしたら演技だったのかも」。
大学の講義が終わった後の、帰り道。
たまたま終わった時間が同じだったから、彼女に一緒に帰りたいと俺は言った。
彼女は照れくさそうに微笑んで、「いいよ」と言ってくれた。
夕焼けが、街を赤く染めていた。
「友達が行方不明になったって聞いたけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ。警察も探しているみたいだし」。
彼女の口調はどこか他人事のようで。
そう言った彼女の顔をよく見たかった。でも、俯いた彼女の顔を、長い髪が隠していた。
その時からだった。「本当の彼女」を知りたいと思ったのは。
彼女はどういう人なのか。絵画や文学が好きな彼女は本当なのか。
それとも、時々感じる視線の強さが「彼女」なのか。
彼女を知りたい。でも、怖い。
もし、俺のよく知っている「彼女」が演出されたものだとしたら。
彼女が怖い。でも、知りたい。
「彼女」が本当はどういう人間なのか。
もし、彼女が孤独だとしたら。
彼女のことを知って受け入れたい。
でも、すべてが「演出」だとしたら。
彼女の好意さえも「演出」だとしたら。
彼女をどこまで受け入れられる。
もう、逃げよう。
「演出」と「夜桜」の世界に。
俺は、彼女に別なものを求めるようになっていった。
いつしか俺は、彼女の絵画的な美と、いつか見た夜桜を重ね始めていたのだ。
第三章 殺意と夜桜
「櫻の樹の下には屍体が埋まっている」。
そう書いたのは、梶井基次郎だっただろうか。
夜桜をつくるのは、人間の体。
彼女の、肢体。
ある日俺は、ベッドで寝ている彼女に忍び寄った。
そのまま、彼女の色白な首に紐をかけた。
その時、ほのかに桜の香りがした。
月の美しい夜だった。
俺は彼女を愛していた。
そのはずだった。
今ではもう、愛していたのは彼女自身なのか、彼女の体なのか、わからなくなってしまっていた。
彼女の美しい肢体が。
艶のある長くて綺麗な黒髪。
絵画のような白い肌。
引き寄せられてしまう桜色の唇。
ほのかに香る甘い匂い。
甘く、囁くような声。
彼女の体のすべてが。
夜桜のように美しかった。
憎かったからではない。
彼女の美しさを永遠にしたかった。
月夜が照らす、満開の夜桜のように。
後は大変だった。
完全に脱力した人間は重いと以前聞いたことがあった。
それでも、ここまで重いとは思わなかった。
「ごめんね」。
俺はつぶやく。
強い罪悪感と深い後悔を、無理矢理頭の外に追いやる。
彼女との思い出も、無理矢理胸に封じ込める。
俺は車のトランクに彼女を押し込んでから、後部座席にシャベルを投げ入れた。
あそこだ。
あの公園がいい。
大して美しくもない桜が咲いていた、あの公園。
あの公園で、綺麗な桜を咲かせるのだ。
俺は、大して美しくない桜の樹の下を掘り、彼女を埋めた。
あの日俺は埋めたのだ。
確かに俺は埋めたのだ。
なのに、無い。
掘り返しても、無い。
どうして。
第四章 月と桜の下で
「今夜は月が綺麗ね」。
吐息が後ろから耳にかかり、ゾクゾクする。
でも、それは。
俺が殺した女の声。
「あなたがわたしを殺したのは、こんな晩だった」。
桜が舞い散る中、俺は膝をついた。
今夜は、月がいやに綺麗だった。
俺は仰向けになる。
俺の首に手がかかる。
凍りつくような、冷たい手。
体が痺れていく。
「今夜は桜が綺麗ね」。
彼女が耳元で囁く。
「多分、これからも、ずっと」。
桜の香りがする。
濃厚な香りが鼻から頭に入る。
その香りが俺の脳を揺さぶる。
体が震える。
甘い吐息が顔にかかる。
唇に、柔らかいものを感じた。
何も考えられない。
冷たい舌が絡まってきて。
甘い刺激で頭の中が染められる。
俺は美のために死ぬ。
美しい夜桜のための、生贄に。
俺はこれから、彼女にすべてを吸い尽くされるのだ。
体も、心も、魂も。
不思議と嫌な気はしない。
彼女と一つになれるなら。
彼女をまた愛せるのならば。
幸せだと思った。
今夜は雲が一つもない。
今夜の月は満月だ。
俺は目を閉じる。
彼女の儚げな微笑みがよみがえる。
月の光が目に差し込む。
月は人を狂わせる。
月は、ただ、そこにあるだけで美しい。
「月が綺麗ね」。
彼女は、冷たく微笑んで。
その妖しい顔が。
「あなたのことを。永遠に」。
その清艶な顔が。
今夜は。
舞い散る桜が。
ただ、美しかった。
薄れゆく意識の中で、甘い桜の匂いを感じた。
女は妖艶に笑う。
生命無き人形の前で。
「愛しいの、あなたのことすべてが。罪さえも愛しい。何度も味わって。あなたへの想いを」。
女は何度も唇を合わせる。
何度も。何度も。
舌を絡めて。
生命を貪り喰らうように。
生きている者は、もういない。
月と夜桜だけが、すべてを見ていた。
月夜の桜 Sora @PaulusMiki
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