第12話 逃亡

院長室。

延長は、和也と向かい合って深刻な表情で話をしていた。


「――このままでは奥様は、いつ誰かを傷つけるかわかりません。転院について、どうかご検討を……」


院長が頷き、資料に目を落としたその時だった。

「院長!大変です!」

廊下を駆けてきた事務員が声を荒げる。

「瓜生絵梨が……! 看護師を突き飛ばして、逃げました!」


院長の手から書類が滑り落ちた。

「なんだと……!? あの患者は弱っていたはずだ!」


「看護師は……?」

院長はすぐに問い返す。


事務員は青ざめて首を振る。

「頭を酷く打ったようです。意識がありません……状態は良くありません」


院長は一瞬、胸を押さえた。

瓜生絵梨――薬物による妄想と暴力性で、

その危険性は誰よりも理解していた。


「院長、それから……」

報告に来た事務員が声を震わせた。

「まだあるのか?」

「手術室の確認をしたところ……手術用のメスが一振り、なくなっていました」


院長の顔色が一気に変わる。

「……まさか……瓜生絵梨が……」


「はい。逃走した直後に確認したので、ほぼ間違いありません」


院長は額に手を当て、重く息を吐いた。

「まずい……。ただでさえ錯乱している患者だ。そんなものを持って街へ出れば……」


言葉を切った院長の脳裏に浮かんだのは、流血の惨劇のイメージだった。


「すぐに警察へ伝えろ! “瓜生絵梨、医療用メスを所持して逃走中”。自死、あるいは人を殺すおそれがあると!」


看護師は頷き、再び駆け出していった。

和也は、言葉を失い、握りしめた拳に力が入るのを感じていた。


和也の胸は焼け付くようにざわめいていた。

「美琴に知らせないと……!」


頭の中で何度も同じ言葉が反響する。

絵梨が錯乱している今、一番狙われやすいのは――美琴だ。

彼女は何も知らず、平穏な日常を送っているはず。


もし絵梨が美琴にたどり着いたら……

その細い首筋にメスが振り下ろされる姿が脳裏をよぎり、和也は血の気が引いた。


「そんなことになれば……俺は、美琴を永久に失ってしまう」


美琴に謝らなければならないことがある。

伝えなければならない言葉がある。

だが、それすら果たせぬまま彼女を失うかもしれない。

和也は病院を飛び出すと、駐車場に停めてあった自分の車に駆け寄った。

ドアを乱暴に開け、エンジンをかける。

鼓動はハンドルを握る指先まで伝わっていた。


目指すのは美琴のマンション。

婚約破棄のあと、彼女は傷心を癒すために一人暮らしを始めたと聞いていた。

その新しい部屋に、僕なんかが足を踏み入れていいのだろうか――。


しかし、胸の奥に巣食う不安が迷いを押しつぶす。

「もし絵梨が美琴を狙っているなら……」


思考がそこで途切れ、喉をかきむしるような恐怖に変わる。

もしものことが起これば、彼女を失うだけではない。

謝罪も、想いを伝えることも、一生できなくなるのだ。


和也は歯を食いしばり、アクセルを踏み込んだ。

「たとえこの命を失っても……俺は美琴を守る」


エンジン音がうなりを上げ、街を切り裂いていく。

赤信号すら待ちきれないほどに、和也の焦燥は膨れ上がっていた。

和也は震える手でスマートフォンを取り出した。

指先は汗で滑り、なかなか番号を押せない。

「……頼む、出てくれ、美琴……!」


着信音の向こうで、無情なコール音が繰り返された。

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