第11話 救急病院
早朝、枕元のスマホがけたたましく震えた。
和也は寝ぼけ眼で画面を確認し、見知らぬ番号に眉を寄せた。
「……はい、もしもし」
受話口から冷静な声が響く。
「病院ですが、奥様が昨夜フェンタニル中毒の症状で救急搬送されました。現在は意識は不安定ですが、命に別状はありません。すぐに来ていただけますか」
「フェンタニル中毒……?」
和也は一瞬、意味が飲み込めず息を呑んだ。
「……わ、わかりました。すぐ行きます」
通話を切った瞬間、胸の奥を冷たい汗が伝った。
昨夜の絵梨の様子が脳裏に甦る。
――急に泣き出して、止まらなくなった。
(あれは……薬のせいだったのか? 僕だけでなく自分にも薬を使っていた……)
布団を跳ねのけ、乱暴に服を着替える。
外はまだ朝靄の残る時間帯だった。
和也はタクシーを拾い、病院へ向かった。
病室に入った瞬間、和也は息を呑んだ。
ベッドの上の絵梨は、顔色は青白く、汗で髪が張り付いている。点滴が腕に繋がれているのに、眼だけはぎらぎらと光り、うわごとのように繰り返していた。
「鬼を殺す…殺す…毒殺、轢殺、銃殺──どれでも構わない
殺す…殺す…殺す…殺す…殺す…殺す…殺す…殺す…殺す…殺す…」
命を救われたことなど、記憶の片隅にさえ残っていない。ただ、美琴を憎む感情だけが支配していた。
(薬物中毒…フェンタニル中毒は、こんな症状が出るのか)
和也はベッドに駆け寄った。
「絵梨! 俺だ、和也だ。一体どうしたんだ?」
しかし絵梨は夫の声にも怯えるように首を振り、しがみつくようにシーツを握りしめる。
「――鬼よ……鬼が……私の皮を剥いて……私に成り代わったの……!鬼は美琴の皮を被っていて、美琴に化けていたの…だから殺す…殺す…殺す…」
(酷い妄想だ。あのまま薬を使われていれば、自分もこうなってたかもしれない)
和也は冷たく絵梨を見下ろした。
点滴を繋がれた腕が震え、必死に医師の白衣を掴もうとする。
医師は困惑を隠せず、看護師に目配せする。
「鎮静剤を追加しろ。……ひどい錯乱だ」
「先生……フェンタニル中毒って、こんなになるんですか?」と看護師が小声で尋ねる。
医師は額に汗を浮かべながら首を振った。
「私も初めてだ……だが、これは……相当ひどいものだな……」
再び針が刺され、鎮静剤が流し込まれる。
絵梨の口はなお微かに動いていたが、言葉にはならず、次第に発語も消失した。
和也は医師に振り返った。
「先生……妻は妊娠しているんです。俺にそう言って……置き手紙も残して……」
だが、医師はきっぱりと首を横に振った。
「おかしいですね。検査しましたが、妊娠の兆候は一切ありません。子宮にも胎嚢はなく、妊娠していた痕跡すら見られませんよ」
「……そんな……」
和也の顔から血の気が引いた。
和也はベッドの傍らに立ち、震える声を抑えきれなかった。
「絵梨……君は“妊娠したから”と俺に結婚を迫った。
あのとき、俺は信じて……責任を取ろうと決めたんだ。
でも、それすら嘘だったのか」
視線を落とし、絵梨の蒼白な顔を見つめる。
「……君は、嘘しかつかないね」
その言葉に、絵梨の目が一瞬だけ大きく見開かれる。
けれどすぐに、恐怖に駆られたように首を振り、掠れ声を吐いた。
「ちがう……嘘じゃない……鬼が……鬼が……私のお腹を引き裂いて赤ちゃんを引きずり出したの」
和也は胸の奥に、怒りとも悲しみともつかない思いを抱え込んだ。
医師が「混乱しているだけです」と言っているが、彼の心の中には“過去のすべてが嘘だったのではないか”という疑念が膨れ上がっていく。
和也は深く息を吐き、重たくなった足を引きずるように病室を出た。
ドアの閉まる音が背後で小さく響く。
──すべて、嘘だった。
出会いも、妊娠も、結婚も、あの涙も、あの笑顔も。
はじまりから、終わりまで。
廊下の蛍光灯が冷たく光り、和也の影を長く引き伸ばしていた。
「ご主人、少しお時間をいただけますか。大切なお話があります。」
医師はカルテを閉じ、和也の方へ向き直った。落ち着いた声だったが、その表情は硬い。
「ご主人、正直に申し上げます。奥様――患者の絵梨さんは現在、重度の妄想状態にあります。自分を害そうとする存在が周囲にいると確信しており、そのために興奮して暴れることが頻繁に見られます。今のまま退院させれば、自傷や他害の危険が極めて高い。最悪の場合、人を傷つけたり、殺人に及ぶ可能性も否定できません。
このため、我々としては拘束・隔離を行える専門病院への移送を強くお勧めします。こちらの施設では急性期の安全確保が限界です。」
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