第5話 鬼の力
翌日、いつもと変わらない朝を迎えた。
昨夜のことは――ただの悪い夢だったのかもしれない。
けれど、身体は確かに変わっている。視界は驚くほど鮮明で、音もよく聞こえる。遠くを走る電車の車輪の軋み、遠くの人の会話、すべてが一度に耳へ流れ込んでくる。
それだけだと思っていた。
人肉を求める衝動もない。食欲も普通。ほっと胸を撫でおろした、その時だった。
インターホンが鳴り、宅配便を受け取った瞬間――。
「すぐに出てくれて良かった……」
そんな声が、相手の口は動いていないのに、頭の奥に流れ込んできた。
最初は気のせいだと思った。だが次の瞬間、彼が箱を渡しながら心の中で呟く。
「この
それが、はっきりと伝わってきた。
私は微笑んで礼を言った。
けれど――笑顔の下で震えていた。
これは夢ではない。
当たり前のように、相手の思考が流れ込んでくる。
顔色が悪いと思われたので、久しぶりに化粧をする。卒業式以来だった。
他の人の思考も読めるのかな?そう思いながら外へ出ると、春の陽射しがやわらかく差し込んできた。
「こんにちは」
「今日はいい天気ね」
ご近所の人たちが、いつもと変わらない調子で声をかけてくる。
その瞬間――頭の中に声が響いた。
《最近見かけなかったけど、元気そうね。よかった》
《顔色がいいわ。安心した》
言葉の裏に隠された本心が、鮮明に伝わってくる。
私は驚きながらも、頷いて笑みを返した。
スーパーに立ち寄ると、普段なら会話もない人たちの思いまで流れ込んでくる。
《天野さんとこの娘さん、今日は元気そうでよかった》
《最近見かけないから心配してたけど、元気そうで良かった》
十人いれば九人までが、私を好意的に、あるいは心配して見てくれている。
残りの一人はただの無関心。悪意は、ひとつもなかった。
――この街、悪くない。街の人たちの優しい気持ちが、心をあたたかくしてくれる。昨夜、呪いをかけたことが、夢だったのではないかと思えるほどに。
駅へ向かう道。
人の数が増えるにつれて、私は少し不安になっていた。
もしも全員の心が流れ込んできたら――。
だが、声が届くのは私に向けられたものだけだった。すれ違う人々の雑念は、私には聞こえない。
……良かった。ほんの少し、安堵した。
その時だった。
背後から、焼けつくような悪意が突き刺さってきた。
あまりの濃さに、足が止まる。
「天野さーん」
振り返ると、
その笑顔の裏から、言葉にならない毒が溢れ出す。
《相変わらず
《だから婚約者を奪ってやった。あの時のあなたの顔、思い出すだけで笑いがこみあげてくるわ》
耳を塞ぎたくても、心に直接響いてくる悪意は防ぎようがない。
「体調不良って聞いてたけど、大丈夫?」
同時に、心の声が頭に流れ込んでくる。
《あなたが沈んだ顔してると、本当に気分が良い》
「ごめんなさい。酷いことをしたと思ってる。本当に」
言葉だけは殊勝そうに。
けれど、心の中では別の声が響く
《全然思ってないけど。化粧でごまかしてるけど、辛そうな表情は隠せてない。フフフいい気味》
「本当にごめんなさい。あんなことがあったけど、私たちは友達よね?」
《ふふ、そんなわけないじゃない。あなたの鈍いところも大嫌いだわ》
だがその奥に、黒い泥のような本音が溢れていた。
「ところで美琴、結婚式来てくれるよね?」
絵梨は首をかしげ、可愛らしく笑ってみせる。
《来なくていいけど、美琴に同情してる同級生も多いから、和解したことを見せたいだけ》心の声が聞こえる。
そして、聞いてもいないのに瓜生絵梨の話は続く。
「和也さんは元気にしてるわよ。彼ったら結婚式を楽しみにして、毎日ラブラブよ」
声は明るく、幸福そのものだ。
和也のことが頭に流れ込んでくる。やめて!聞きたくない!
拒絶しても、頭の中に入り込んでくる。
《和也、未だに美琴のことを忘れられないみたいで、未練たらたら。私が付き合ってあげてるのに、しょうもない男。》
ええっ?和也が私のことを!!
「結婚式までに、和也さんと会って、ちゃんとお別れしたいわ」
そう言うと、絵梨はにっこり笑って言った。
「そんな必要ないわ。彼はもうあなたには会いたくないって言ってるから」
《和也はずっと、ちゃんと美琴と話したいって言うんだけど、私が止めてるの。だって、ちゃんと話し合いなんてされたら、美琴が浮気してたとか、陰で和也の悪口を言ってたとか、私の嘘が全部ばれちゃう》
絵梨の黒くねじれた心の声が響いていた。
何故、和也が突然心変わりをしたのか、ようやくわかった。
絵梨が和也に嘘をついて、会わないようにしむけて、私の悪口や私が浮気をして、別れたがってるとか、和也に吹き込んでいた。
美琴は、黙ってその場を去った。
もう無理だった。
友達のふりをした絵梨の悪意に、これ以上耐えられなかった。
人間の悪意は、こんなにも強いのか。
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