第4話 狂気の芽生え

 怒りが鎮まった気がした。

 けれど、心は満たされない。ぽっかりと空洞が広がっている。

 ――食べれば、満たされるのだろうか?

 人肉を。


 ぞっとして頭を振る。

 なに考えてるの、私……

  ――瓜生絵梨のお腹を割いて、赤子を引きずり出し、それを食べる――。

 そんな妄想が、いやに生々しく脳裏をかすめた。

 ダメだ、そんなこと。ダメダメ……!


 はっとして振り返る。

 あれ? 来たときよりも、あたりが明るい。

 月の光が強くなったわけじゃない。

 夜の闇の中、雑草の葉脈や、木の幹のひび割れまでもが、鮮やかに浮かび上がって見える。

 目が慣れたのだろうか……?

 それとも――。

 小さな虫たちが、懐中電灯の明かりに群がってきた。

 その羽音までもが、耳の奥で細かく響く。鬱陶うっとうしい――そう思った瞬間、闇から一匹の蝙蝠こうもりが舞い込み、虫を追って顔のすぐそばをかすめた。


 反射的に手を伸ばす。

 次の瞬間、私はその小さな体をしっかりと掴んでいた。


 ……え?


 驚きながらも、手の中でばたつく蝙蝠こうもりを見下ろす。

 爪も牙も剥き出しにしているのに、愛おしいような感覚が胸をよぎった。

  よく見れば可愛いかも…

 私はそっと手を開き、夜空へと解き放った。


 蝙蝠こうもりは一瞬で闇の中へ消えていった。

 ――今のは、本当に私が?

 どうして、あんな速さで飛ぶものを捕まえられたの……?

 山道を下りていくと、やがて点々と家の灯りが見えてきた。

 しばらくすると、唐突に現れる人工の光――コンビニエンスストアの看板が夜空に浮かんでいる。

 白と緑と赤の光が、妙に眩しい。

 さっきまで暗闇を支配していた私の視界には、まるで針のように突き刺さった。


 ――ああ、人間の世界だ。


 ガラス戸を開けると、電子音が鳴り、暖かい空気と油と惣菜の匂いが押し寄せる。

 菓子パン、弁当、カップ麺が並ぶ棚。

 どれも食べ物のはずなのに……妙に空虚で、どれひとつとして欲しくない。

 胃の底にあるのは、まったく別の渇き。

 レジで支払いを済ませ、車に戻る。

 ビニール袋を開けて、おにぎりをひとつ。

 海苔の香りが鼻に抜ける。

 一口かじると……普通に美味しい。

 温かいお茶を流し込むと、胃がじわりと温まっていく。


 ――なんだ、食べられるじゃない。

 米も、海苔も、塩も。

 ちゃんと、私の身体は受け入れている。


 さっき頭をよぎった「人肉を食べる」なんて妄想は、やっぱり異常な空間にいたからだ。

 あの荒れ果てた神社、丑の刻参りなんていう呪術的な行為。

 あれが私の感覚を狂わせただけ。

 きっとそう。そうに違いない。


 家に帰り、部屋に入る。まだ夜は明けていない。

 トレンチコートを脱ぎ捨てる。裾にまとわりつく冷たい感触に視線を落とすと――ウェディングドレスの裾に、赤土がべったりと付いていた。


 ゆっくりとドレスを脱ぎ、丸めて押し込むようにドレッサーへしまい込んだ。閉じた扉の隙間から、白布がひとひら覗いている。血のような赤土を帯びて。


 ――呪いは、果たされたのだろうか。

 いや、まだだ。

 まだ終わっていない。私にはわかる。


 あの藁人形に釘を打ち込んだだけでは足りない。

 胸の奥がうずいている。

 何かを求めている。

 しなければならないことが、残っている。

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