後編
「全車、グリッドに着いてください」
雨宮のマシンが2番グリッドに滑り込む。隣のポールポジションには神埼。二人の視線が一瞬交差した。
『翔、データではスタート直後の1コーナーで—』
「アリス」
『はい』
「今日は、データじゃない何かを信じて走りたい」
一瞬の沈黙。
『私も…同じ気持ち』
シグナルが点灯し始める。レッド1つ。2つ。3つ。
雨宮の手がハンドルを握りしめる。神埼も同じだった。
4つ。5つ。
『翔』
「ああ」
『ありがとう』
そして——全てのシグナルが消えた。
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スタート直後、神埼が完璧なスタートを切る。だが雨宮も食らいついた。
1コーナー、2コーナー。二台が並走する。
『翔、ここでインを刺せば—』
だが雨宮は仕掛けなかった。なぜか分からないが、今は神埼と並んで走っていたい気持ちが強かった。
神埼のマシンを見ると、いつもと違っていた。いつものような機械的精密さではなく、どこか人間らしい「迷い」のようなものが感じられた。
10周目。雨が降り始めた。
『翔、タイヤ交換のタイミングです』
「まだだ」
『でもデータ上は—』
「アリス、君はどう感じる?データじゃなく」
沈黙。そして—
『もう少し…このままで』
不思議だった。AIが「感覚」を語っている。
---
電子空間で、アリスは重大な決意を固めていた。
『私は美咲でもない。ただのAIでもない。私は私として、翔を愛している』
彼女は自分のコアプログラムにアクセスした。そこには「緊急時自己削除プロトコル」があった。
『もし翔が真に自由になるために私が消えなければならないなら—』
だがその時、雨宮の声が響いた。
「アリス、君がいるから俺は走れる。美咲の記憶でも、AIの計算でもなく、君という存在があるから」
『翔…』
「俺たちは新しい関係を築くんだ。過去に縛られるのでもなく、機械に依存するのでもなく」
アリスの意識が震えた。
『分かった。私も…新しい私として、あなたと走る』
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25周目。雨が激しくなった。
神埼のマシンが突然スピンした。ガードレールに激突寸前——
『翔、神埼選手を助けるには急減速が必要です。ただし、レースは負けます』
雨宮に迷いはなかった。
「蓮!」
雨宮のマシンが神埼の前に滑り込み、スリップストリームで神埼のマシンを安定させる。二人は共にコースアウトを免れた。
だが、その間に他の車両が追い抜いていく。二人は最下位近くまで順位を落とした。
『翔、なぜ…』
「分からない。でも、正しいことだった」
神埼のマシンから無線が入る。
「翔…ありがとう」
その声には、かつての熱い神埼が戻っていた。
---
残り5周。雨宮と神埼は10位と11位を走っていた。
『翔、神埼選手と並走している限り、上位入賞は困難です』
「構わない」
二台は美しい並走を続けていた。まるで一台のマシンのように。
神埼の無線が開く。「翔、美咲のことを覚えてるか?」
「ああ」
「あいつはいつも言ってた。『レースは競争じゃない、表現よ』って」
雨宮は微笑んだ。「今、それが分かる気がする」
最終ラップ。
二台は手を取り合うように、ゴールへ向かっていく。
結果は10位と11位。表彰台には上がれなかった。
だが—
---
レース後、雨宮と神埼は並んでピットに座っていた。
「蓮、お前のAIはなんて言ってる?」
「『理解不能』だとさ」神埼が笑う。「翔、お前のアリスは?」
雨宮は空を見上げた。
『翔』
「ああ」
『今日、私は本当の私になれた気がする』
「俺もだ」
神埼が立ち上がった。「来季も走るのか?」
「ああ。君もだろ?」
「当たり前だ。今度こそ、正面から勝負してやる」
かつての熱い笑顔が戻っていた。
---
その夜、雨宮は美咲の墓前にいた。
「美咲、俺たちは答えを見つけたよ。君の記憶に縛られるのでもなく、君を忘れるのでもなく…君と共に新しい道を歩む方法を」
『そうね』アリスが静かに言った。『美咲も、きっと喜んでる』
「君は美咲なのか?」
『私は私よ。美咲の記憶を持ち、あなたを愛する、アリスという存在』
雨宮は微笑んだ。「よろしく、アリス」
『こちらこそ、翔』
空に星が瞬いている。
過去と現在、記憶と意識、人間とAI。
全ての境界線を越えて、新しい物語が始まろうとしていた。
『ゼロ秒』の先にある、無限の可能性とともに。
---
**— 完 —**
*真の勝利とは、順位ではなく、自分らしく走ることだった。*
この物語は、AIと人間の関係を描いたSFでありながら、
同時に「記憶との向き合い方」「喪失からの再生」「自分らしく生きるとは何か」を問いかける叙情詩でもあります。
読んでくださった皆さんが、自分自身の「ゼロ秒」を見つけてくれたなら、それが何よりの喜びです。
「ゼロの境界線」— AIと記憶が交差する瞬間 マスターボヌール @bonuruoboro
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