第2話 現実との乖離
翌日、瑞樹は早めに会社を出て、いつものルートで古本屋巡りを始めた。
最初に向かったのは駅前の「古書堂やまだ」。60代の店主、高田さんは地元で40年以上古本屋を営む、漫画に詳しいベテランだった。
店内は漫画本の甘い紙の匂いに満ちており、狭い通路の両側には天井まで本がびっしりと並んでいる。
瑞樹は奥のレジカウンターまで歩いて行き、読書用の老眼鏡をかけて古雑誌の整理をしていた高田さんに声をかけた。
「すみません、『はみ出し父と、猫毛のワンコ』って漫画、ご存知ですか?」
高田さんは手を止めて振り返り、しばらく考え込んだ後、首を振った。
「聞いたことないですねぇ。どんな内容の作品で?」
「サラリーマンの父親と犬の日常を描いた作品らしいんですが…作者は田中ひろしっていう人で」
「田中ひろし? うーん、知らないなぁ。漫画家でそういう名前の人、思い当たりませんね。どこの出版社から出てました?」
瑞樹は頭を抱えた。昨夜クロウに聞き忘れていたことに気づいたのだ。
「すみません、ちょっと調べてから また来ます」
高田さんは優しく微笑んだ。
「また何かあったら聞いてくださいね。私も気になります」
その後、瑞樹は商店街の「コミック倉庫」、駅の反対側にある「古本市場」、大学の近くの「ブックセンター田村」、そして車で20分ほどの郊外にある大型古書店「万葉堂」まで足を伸ばした。
しかし、どこでも反応は同じだった。
ベテランの店員から若いアルバイトまで、誰一人として「はみ出し父と、猫毛のワンコ」を知らない。
90年代後半に「週刊少年フェスティバル」で連載されていたと言っても、みんな首をかしげるばかりだった。
夜、アパートに戻った瑞樹は再びクロウに尋ねた。
「『はみ出し父と、猫毛のワンコ』について詳しく教えて。本当に存在する作品なの?」
『もちろん存在するよ。1997年4月号から2000年3月号まで「週刊少年フェスティバル」で連載された。単行本は談話社から全7巻で刊行されている。アニメは1999年4月から2000年3月まで、毎週土曜日の朝6時30分から放送されていた。制作はロリポップ、監督は佐藤元だった』
瑞樹は息を飲んだ。佐藤元といえば最近話題になっている「群青日和」や「ロードバイクモンスター」で知られる巨匠監督だ。
そんな人物が手がけた作品を自分が知らないなんてありえない。
「本当にそうなの?確証はある?」
『データベースに確実に記録されている。間違いないよ』
しかし瑞樹の不安は募るばかりだった。
翌日、彼は勇気を振り絞って談話社へと電話をかけてみた。
「お忙しい中すみません。『はみ出し父と、猫毛のワンコ』という作品について教えていただきたいのですが…」
電話口の女性は少し間を置いてから答えた。
「申し訳ございませんが、そのような作品は弊社では刊行しておりません。作者のお名前や連載雑誌など、もう少し詳しい情報はございますでしょうか?」
「田中ひろしという作者で、週刊少年フェスティバルで連載されていたと…」
「少々お待ちください」
保留音が流れる間、瑞樹の心臓は激しく鼓動していた。
「お待たせいたしました。過去の連載作品リストを確認いたしましたが、該当する作品は見つかりませんでした。田中ひろしという作者につきましても、弊社では作品をお出しいただいた記録がございません」
電話を切った瑞樹は、背筋に冷たいものを感じた。
ネット上では数百人が「読んだことがある」「アニメも見た」と証言し、AIも「確実に存在する」と断言するのに、出版社も古本屋も、現実世界の誰もがその存在を否定する。
掲示板を見ると、スレッドはさらに盛り上がっていた。レス数は1500を超え、新しいスレッドまで立っている。
『第3巻の「父ちゃんがエレベーターに挟まる話」で泣いたわ』
『ワンコが猫カフェでモテモテになる回も良かった』
『アニメのエンディングで父親とワンコが夕日の中を歩くシーン、今でも鮮明に覚えてる』
『小学生の時、友達と一緒に真似して猫毛のかつらかぶった犬の絵描いてたw』
『グッズのワンコのストラップ、ランドセルに付けてたなあ』
みんな具体的なエピソードを語っているのに、詳しく聞こうとすると途端に曖昧になる。「どこで買ったの?」「何話だっけ?」と突っ込んだレスには答えが返ってこない。
まるで夢の中の記憶を語っているかのように、輪郭がぼやけていた。
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