はみ出し父と、猫毛のワンコ

ぶん

第1話 夜風が運んだ違和感

 十月の終わり、冷たい雨が窓を叩く夜更けのアパートで、瑞樹のスマホが青白く光っていた。

 六畳一間の狭い部屋には漫画本が床から天井まで積み上がり、まるで紙の要塞のような様相を呈している。

 コンビニ弁当の空き容器と缶コーヒーが机の上に散乱している中、彼はいつものオタク掲示板「マンガ魂」を眺めていた。

 普段なら「今期アニメ総評スレ」や「打ち切り漫画を語ろう」といった馴染み深いスレッドが並んでいるはずなのに、今夜は見慣れないタイトルが目に飛び込んできた。


【懐かしい】はみ出し父と、猫毛のワンコ【名作】


「なんだこれ?」

 瑞樹は眉をひそめた。

 彼は幼稚園の頃から漫画を読み続け、今では数少なくなった古本屋巡りが趣味の25歳。

 マイナー作品からメジャー作品まで、自分の記憶にない漫画はほとんどないという自負があった。

 しかし、このタイトルに限っては全く覚えがない。

 スレッドを開くと、時刻は深夜2時を回っているにもかかわらず、驚いたことに既に600件近いレスが付いていた。

 投稿時刻を見ると、どれも今夜、それも過去数時間以内に集中して書き込まれたものばかりだった。


『子供の頃めっちゃ読んでた!懐かしすぎる』

『アニメのOP今でも歌えるwww ふわふわワンコが〜パパを飛び越える〜♪』

『あの父親がサラリーマンカバンからいつもはみ出してるのが可愛かった』

『犬なのに猫の毛質でアレルギー大発生する話が好きだった』

『小学校の図書室にあったなー。借りるのにいつも順番待ちしてた』

『作者の田中ひろし先生、今何してるんだろ?』


 レスを読み進めるうち、瑞樹の胸に奇妙な違和感が芽生えた。

 みんな具体的なエピソードを語っているのに、どこか現実味に欠けているのだ。

 まるで共通の夢を見た人たちが、その内容を語り合っているような不思議な感覚だった。

「クロウ、この漫画知ってる?」

 瑞樹は愛用のAIチャットbotの「クロウ」に話しかけた。

 クロウは最新の学習データを持つ高性能AIで、漫画やアニメの情報にも詳しい。

 これまでどんなマイナー作品の質問にも答えてくれていた。


『もちろん知ってるよ!90年代後半の名作だね。作者は田中ひろし、全7巻で完結している。サラリーマンの父親と、なぜか猫の毛質を持つ犬の日常を描いた心温まる作品だよ。1997年から2000年まで「週刊少年フェスティバル」で連載されていた。アニメ化もされて、土曜日の朝に放送されていたんだ』

「そうなんだ…でも俺、全然知らないな」

 瑞樹は首をかしげながら、今度は検索エンジンで「はみ出し父と、猫毛のワンコ」を調べてみた。

 しかし出てくるのはさっきの掲示板のスレッドばかり。

 大手通販サイトにも、日本の古本屋、古書販売サイトにも一切登録されていない。

 作者の「田中ひろし」で検索しても、この作品に関する情報以外は何も出てこない。

 ネットの百科事典にも項目はなく、出版社の公式サイトにも過去の連載作品リストにも載っていない。

 これほどメジャーな雑誌で連載され、アニメ化までされた作品が、インターネット上でこれほど痕跡を残していないのは異常だった。

「おかしい…」

 瑞樹は再び掲示板を見た。レス数は既に800を超えており、書き込みの勢いは衰えていない。


『第5巻でワンコが迷子になる話、マジで泣いた』

『アニメの声優豪華だったよね。父親役が大塚明夫で、ワンコが林原めぐみだった』

『ED曲の「明日もいっしょだワン」今でもカラオケで歌うわ』

『グッズも色々出てたよね。ワンコのぬいぐるみ持ってた』


 どのレスも具体的で、まるで本当にその作品を愛読していたかのような熱量に満ちている。

 しかし瑞樹には、彼らが語る「共通の記憶」に全く身に覚えがなかった。

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