第3話 編集者の野望

 翌週の火曜日、瑞樹が会社で資料整理をしていると、スマホに知らない番号から着信が入った。

 一瞬迷惑電話かと思ったが、東京都内の市外局番だったので恐る恐る出てみた。

「瑞樹さんですか? 週刊少年フェスティバル編集部の橘と申します」

瑞樹は手を止めた。週刊少年フェスティバル。クロウが言っていた、あの幻の作品の連載誌だ。まさか出版社の方から連絡が来るとは。

「え? 週刊少年フェスティバル? どうして僕の連絡先を…」

「先日、弊社にお電話いただいた件について、詳しくお話を伺いたいのです。『はみ出し父と、猫毛のワンコ』について質問された方ですよね?」

 電話口の女性の声は若く、どこか興奮を帯びているようだった。

「はい、そうですが…でも、そちらでは存在しないって言われました」

「そうなんです。それで同僚から『変なクレームがあった』って聞いて、すごく興味を持ったんです。ネットでも話題になってますし、これは面白いことになるかもしれません」

 瑞樹は周りを見回した。

 オフィスには同僚たちが黙々と作業をしており、誰も彼の電話に注意を払っていない。

「面白いって、何がですか?」

「お時間があるときに一度お会いできませんか? 面白い提案があるんです。きっと瑞樹さんにとっても悪い話じゃないと思います」

 橘の声には確信に満ちた響きがあった。

 瑞樹は困惑しながらも、この謎の真相に近づけるかもしれないと思い、週末に会うことを約束した。

 数日後の土曜日、表参道の静かな喫茶店で瑞樹は橘編集者と対面していた。

 30代前半と思われる女性で、知的な印象を与える細いフレームの眼鏡をかけている。ショートカットの髪と、鋭い眼差しが印象的だった。

 彼女の前には分厚い資料ファイルが置かれている。

「改めまして、橘です。この度はお忙しい中お時間を作っていただき、ありがとうございます」

 彼女はコーヒーを一口すすってから、身を乗り出すように瑞樹を見つめた。

「単刀直入に言います。瑞樹さん、『はみ出し父と、猫毛のワンコ』を連載しませんか?」

 瑞樹は口に含んでいたコーヒーを危うく吹き出すところだった。

「は?でも、その作品って…存在しないんですよね?」

「そうです。存在しない。でも、だからこそ最大のチャンスなんです」

 橘は資料ファイルを開き、プリントアウトされた掲示板のログを瑞樹の前に広げた。

 そこには例のスレッドの書き込みが時系列で整理されている。

「見てください。たった一週間で3000件を超える書き込み。みんな具体的なエピソードを語り、愛着を込めてこの作品について話している。これがどれだけ貴重な状況か、瑞樹さんはご理解いただけますか?」

 橘は熱っぽく語り始めた。

「ネットで話題沸騰中の『幻の名作』を、実際に描いて連載するんです。読者の記憶を元に、物語を再構築していく。これまでにない、全く新しいエンターテイメントの形です」

瑞樹は眉をひそめた。

「でも、僕は漫画家じゃありません…」

「原作だけやってもらえれば十分です。作画は別の方にお願いします。うちには優秀な新人が何人もいますから」

 橘は別のファイルから、手書きのラフスケッチを取り出した。

「これが暫定的なキャラクター設定です。読者投稿で『思い出のエピソード』を募集して、それをまとめて物語にしていくんです。読者参加型の創作プロジェクトですね」

 瑞樹は困惑を隠せなかった。スケッチを見ると、確かにサラリーマン風の男性と、ふわふわした毛の犬が描かれている。しかし、それを見ても彼の記憶には何も呼び起こされない。

「それって、なんだか詐欺みたいじゃないですか? 存在しない作品を、存在したかのように装って……」

 橘は首を横に振った。

「詐欺じゃありませんよ。みんなが心から求めている作品を作るだけです。虚構と現実の境界なんて、今の時代曖昧でしょう?」

 彼女は身を乗り出し、瑞樹の目を真っ直ぐ見つめた。

「考えてみてください。SNSで話題になり、動画配信サイトでレビューされ、グッズ化もできる。映像化の可能性だってあります。これは単なる漫画連載じゃない。新しい文化現象を創造するプロジェクトなんです」

 瑞樹は戸惑った。確かに橘の言うことには一理ある。

 しかし、何か根本的に間違っているような気がしてならない。

「でも、これって読者を騙すことになりませんか? みんな本当に読んだことがあると思っているんですよね?」

「それがどうしてそうなったのか、私たちにもわかりません。でも重要なのは、彼らが心からその作品を愛しているということです。だったら、その愛に応える責任が私たちにはあるんじゃないでしょうか?」

橘の言葉には説得力があった。しかし瑞樹の心の奥で、警鐘が鳴り続けていた。

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