第2話

「12番、波多野真冬さん。」


呼ばれていることに気づいたのは、隣に座る母に肩を叩かれた時だった。

どうやら私は、ステージで耳鳴りに襲われたあと、そのまま気を失っていたらしい。

必死に救急車を呼ぶ母の顔だけが、今も鮮明に焼き付いている。


病院に着いた頃には耳鳴りは治まっていた。だが、その代償として――耳元で叫ばれないと聞こえないほどに、聴力は衰えていた。



幼い頃から「耳の良さ」は私の武器だった。

「真冬の耳はプロになれる」

「絶対音感は天からの才能よ」

そう言われ続け、その言葉を信じてきた。


誰に言われたからではなく、自分の耳でどこまで行けるか試したかった。

音楽家への道は厳しいと何度も忠告されたが、それでも“私は戦える”と自信を抱いていた。


――けれど。

一瞬で夢も自信も、ピアノそのものも奪われた。


神様は、必死に夢を追いかけていた私を見て、嘲笑っていたに違いない。

それなら、最初から目指さなければよかったのに。



絶望の底では、人は泣き方すら忘れるらしい。

感情を外に出す術を失い、私の中にはただ負の感情だけが積もっていった。


診察を待つ間、無意識に耳を澄ませていた。

この待合室ではどんな音がしていたんだっけ。

ドアの軋む音、流れていたBGM、看護師さんの声。

――母の声は、どんなだっただろう。

――自分の声は?

――ピアノの音は?


毎日聴いていたはずなのに、静寂に沈んだ世界では思い出せない。

私は、大好きだったピアノの存在さえ、自分の中から消そうとしていた。



「波多野真冬さん。」

診察室から看護師が顔を出し、再び呼ぶ。母に肩を叩かれて、やっと自分の名前だと理解する。


診察室に入ると、年配の先生が紙とペンを差し出してきた。

そこには大きく、こう書かれていた。


(こんにちは。僕の名前は橋本秀俊です。あなたの名前と、好きなことを書いてください。)


私はペンを握り、ためらいなく書いた。


(私の名前は波多野真冬です。好きなことは、ありません。)


先生は否定せず、ただ穏やかに頷いた。そして口を大きく動かして「ありがとう」と言った。



治療の方針が母と先生の間で語られていく。けれどその会話は、私の後ろを通り抜けていくばかり。

目の前にいても、私はそこにいない。


――私は、もう別の世界にいるようだった。

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