冬将軍のムジカ

牡蠣ピー

第1話

「12番、波多野真冬。自由曲部門。ピアノソナタ第14番。」


無機質なアナウンスが会場に響く。必要事項だけを告げるその声は、冷たく残酷だった。


ステージの壁には「東京国際ピアノコンクール」の垂れ幕。幾度もの予選を突破して、ようやくこの舞台に辿り着いた。ここで優勝しなければ、今まで蹴落としてきた人たちの思いも、自分の夢も、無駄になってしまう。


拍手に包まれながら歩みを進める。黒い光沢を放つグランドピアノ、その内部の響板は黄金色に輝いている。観客席へ一礼すると、会場は一瞬にして静寂に沈んだ。


椅子に腰掛け、鍵盤に手を置く。深呼吸をひとつ。心臓の鼓動も次第に落ち着いていく。


指が動き出す。弦が鳴り、空気が震え、音が観客へと届く。


――ベートーヴェン「ピアノソナタ第14月光」。


第一楽章。静かで重苦しい調べは、身分違いの恋に苦しむベートーヴェンの心そのもの。伯爵令嬢ジュリエッタに想いを寄せながらも、師と生徒という関係しか許されない。月光のように淡く、触れられない距離。そんな切なさが会場を覆う。


第二楽章。軽やかなメヌエット。舞踏会で踊る二人を思わせる明るい旋律。けれど、鐘の音とともに時間は終わりを告げる。短く儚い幸福。


そして第三楽章「激情」。

難聴に苦しむベートーヴェンが全身全霊でぶつけた愛の叫び。鍵盤の上を指が駆け抜ける。汗が滴り、体が自然に揺れる。

「好きだ、愛している」――その叫びが音になり、観客の心を震わせる。


嵐のような演奏が終わり、拍手が一斉に降り注ぐ。

「やりきった……勝った!」

全身が震え、汗でシャツは濡れていた。興奮で足元がおぼつかない。


その時――。


突如、耳を裂くような耳鳴りが襲った。

「キィィィィィィィィィィン……」


礼をしようとするが、音はどんどん大きくなる。両耳から頭にかけて強烈な痛みが走る。立っていられず、その場にうずくまった。


係員が駆け寄って声をかけるが、何も聞こえない。観客のざわめきも、拍手も、すべて耳鳴りにかき消されていく。


夢を託したピアノも、掴みかけた未来も、今まさに奪われていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る