第2話 ミッシェル・フォンティーヌ

 柔らかな風が吹いた。


 空が薄っすらと明るくなっている。あと数秒もすれば太陽が家々の屋根から覗くだろう。白いマグノリアの花が朝露を纏いながら今か今かと光を待ち望んでいる。

 そんな街の通りを二階の窓辺から眺め立つ黒い男の近くに、白い男が現れた。


「こんばんは、ヴォイチェフ」


 ヴォイチェフはその燃えるような赤い目を薄っすらと細めて笑い、答えた。


「アルベルトか。もうおはようかもしれないぞ。こだわることでもないが」

「いえ、あいさつは大切ですから」


 暗い部屋の中で僅かな明かりをうけて、その月長石のような髪は光っているようだった。


「では改めて、おはようございます」

「おはよう。今日は晴れるな」


 アルベルトはヴォイチェフのそばに並び立つ。真っ白な革靴は音をたてない。


「しばらくお会いしていませんでしたが、お変わりありませんか」

「そうだな。私に変わりはない。ずっとお前はどうしてるだろうか考えてたな」

「僕も貴方のことを想っておりました。どうも最近は」


 アルベルトはちらりとすぐ近くのベッドに目をやった。


「このよう場面に立ち会うことが多くて」

「確かに、気が滅入るな」


 ヴォイチェフは銀のシガレットケースを取り出して、少し止まると夜色の髪をかき回してから黒い外套の内側に仕舞った。子供の前で吸うものではない。

 薄っぺらなブランケットに包まれて、一人の少女が目を瞑っていた。口がはくりと開いて弱々しい咳を何度かした。まだ冷たい空気に小さな肩が震えている。


「いろんな光景を数えきれないほど見てきたが、やはり、な」

「そうですね。だからずっと貴方に会いたかった」


 アルベルトは眉を顰めながら、その碧い目で少女を見つめている。ヴォイチェフはそんな彼を見て胸が痛むのを感じた。アルベルトはヴォイチェフのそばにいるとき、いつも穏やかに笑っている。ヴォイチェフが彼の笑う顔が好きなのを知っているから。いつぶりだろうか、こんな表情を見るのは。以前こんな顔をしていたとき自分はどうしただろうか。

 どうしたらいいのか、わからなかった。なのでヴォイチェフはいつも通りに振舞うことにした。


「私もお前に会いたかった。お前が一人で泣くくらいなら、胸のひとつでも貸してやろうかと思ってな」


 そう言ってにやりと笑う。アルベルトは訝しげにヴォイチェフを見た。


「なんなんですか。泣きませんよ」

「泣きそうだっただろう」

「泣きません。これが僕たちの仕事ですから」


 アルベルトは目を閉じ、ふ、と笑った。薄い唇が弧を描く。


「そうですね。泣きたくなったら、その時はよろしくお願いします」


 それを見てヴォイチェフの胸の内は温かくなった。


「それにしてもお元気そうで、お会いできてよかったです。近頃は貴方のご友人とも会う機会がなくって……」

「あいつもまた別の区に行ってるみたいだ。そういえばこの前会ったときアルベルトは元気かと聞かれたぞ」

「おや、そんなことが」

「あいつにとってはお前ももう、友人の一人みたいだな」

「それは、喜ばしいことです」


 くすくすと笑うアルベルト。ヴォイチェフにまたひとつ懸念が浮かぶ。


「アルベルト」

「はい?」

「私はお前が笑っているのが好きだ」

「はい」

「だからといって無理に笑うことがあるのならばやめてくれ。そんなお前を見ているくらいなら、私は」

「ヴォイチェフ。貴方って人は」


 笑みを深くしてアルベルトは向き直る。


「馬鹿な人。僕は貴方のためにわざわざ取り繕うような真似はしませんよ」


 そう言いつつふ、と笑って見せるアルベルトをヴォイチェフはあっけにとられたかのように見る。そして喉の奥でくっと笑った。

 その時、ベッドの上で震えていた体が止まった。ひとつ小さな咳をしたのを最後に、その呼吸も止まった。

 アルベルトは懐から金色の懐中時計を取り出した。蓋が軽い音をたてて開く。


「時間通り、ですね」

「そうか。……そうか」

「ええ、いつものことですが、たとえ数瞬でも苦しみが短ければいいのに」

「誰がどんな結果になっても」

「わかっています」


 ベッドの脇に膝をついたアルベルトは少女に顔を近づける。柔らかく息を吹きつけると、少女の目がゆっくりと開かれた。怯えるように周囲を見渡していたが、アルベルトの目を見て止まる。その間ヴォイチェフは藤色の手帳を取り出した。表紙には明るい黄色の文字で“Michelle Fontaine”と刻まれていた。


「起き上がれますか」

「……あなただあれ?」

「僕たちは貴方をお迎えに来た者です」

「天使さま……?」

「なんでも、ご自由に」


 少女はアルベルトの手をとり体を起こす。


「ミッシェル・フォンティーヌで間違いないな」

「ええ。私、もう死んじゃったの?」


 ぼんやりと繋いだ手を見ながらミッシェルは呟いた。


「お母さんになんにもできなかったなあ」

「お母さんですか」

「そう」


 ヴォイチェフは手帳を数ページ捲る。


「母親は仕事だな。この子の病院代を稼ぐためらしい」

「お母さん、いつも働いてて、疲れてて。それでも本を読んでくれて。私はずっとベッドにいるだけで何もできなかった」


 ミッシェルはそう言うと涙を一つ零した。アルベルトは部屋の中を見渡した。物の少ない質素な部屋だが、壁にはミッシェルの写真や絵が大切にかけられている。麻布でできたぬいぐるみもあった。


「ミッシェル・フォンティーヌ、貴方は愛されていた」

「うん」

「でしたらそんな後悔はなさらないで。愛を注ぐ人の糧は、愛する人の存在そのものですから」


 アルベルトはぬいぐるみを手に取り、ミッシェルに持たせる。


「貴方がいて、お母さんはきっと幸せでしたよ」

「……うん」


 ミッシェルが泣きやむまでの少しの間、二人の男はずっとそばにいた。


「天使さま、ありがとう」

「もういいのか?」

「うん」

「では、ここにサインを貰おう」


 ヴォイチェフが藤色の手帳を差し出す。ミッシェルがたどたどしくサインしたのを確認すると、彼は手帳をしまった。アルベルトが声を掛ける。


「行きましょうか」


 少女と二人は家の外へと歩きだした。扉をくぐると、柔らかい風が爽やかなマグノリアの香りを運んでくる。太陽がゆっくりと顔を出し、朝露を光らせた。


 少女はもう、寒さに震えることはない。

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